「サーフィン歴史保存協会」-。全国各地で波乗りを楽しむサーファーにとって、さほど馴染みがある名前ではないだろう。日本サーフィンの歴史と言われてもピンと来ないし、日々波を負うサーファーには興味がないかもしれない。
野球やサッカー、テニス、相撲などには、その歴史を紐解き、後世に繋ぐ施設があるが、サーフィン界には、まだ存在しない。「サーフィンの歴史を広く共有し、貴重な資料を災害から守りながら、安全に保存したい」。その一心で、協会を立ち上げたのは写真家の竹井達男さん(53)。
全国にレジェンドと呼ばれる老練なサーファーがいて、プロの業界やアマチュア選手の団体もある中で、なぜ写真家の竹井さんがサーフィンの歴史を残す役目を引き受けたのか。
高校生で1960s(シックスティーズ)のサーフカルチャーにハマり、米国の西海岸に渡って、ジョエル・チューダーやロブ・マチャドらと交流しながら、カメラの腕を磨き、20年間、60s愛を貫き、「名作」と呼ばれる写真集まで出した竹井さん。帰国後は、日本の古いサーフィン関連の資料や写真、映像を集め、その真摯な姿勢が信頼を勝ち取り、昔の資料を託す人が続々と現れているという。
今春には、東京、大阪、千葉のパタゴニアの店舗で展示会とトークショーを開催。日本サーフィンの歴史を整理し、残していくための活動に支援を求めている。この記事を読めば、竹井さんが日本のサーフィンの歴史保存を担うにふさわしい人物と、納得してもらえるかもしれない。
Young & Stupid

「高校2年の時、『ビッグウェンズデー』を見て、かっこいいなあって。サーファーって横分けして大きいボード持って、短いトランクス履いてやるもんやって思ってた」
大阪で生まれ育った。大学生になった18歳のころ、先輩に連れられて憧れのサーフィンを始めたが、とんだ勘違いをしていた。「伊勢や日本海、伊良湖、宮崎や種子島も行った。初心者だから余裕ないでしょ。そのうち大会とかも出るようになったけど、ある日突然、自分を見返した時に気付いて、先輩を問いただした。そしたら、『それショートボードやで』って。自分はロングボードやってるつもりだったんですよ!」
雑誌「Fine」風のイケてるサーファーの中で、古着のシャツに細身のズボンを履いていると「竹井くん、ぴちぴちやな」などと言われた。「まさにYoung and stupid(若気の至り)ですよ」と振り返る。
60年代の機材で写すモノクロの世界

大学を卒業し、金を貯め、親に頭を下げた。「アメリカに行かして」。1996年に渡米。もちろん、念願のロングボードをするため。拠点はカリフォルニア州サンディエゴ。地元のコミュニティカレッジの専攻で、どうしても単位が埋まらず「歓迎!初級クラス」の文句に釣られてに選んだ学科がフォトグラフィー(写真)だった。「基本をしっかり丁寧に教えてくれて、どのクラスよりも写真の授業が心待ちなったというのがカメラとの出会いだった」
自身もロングボードに明け暮れながら、60s愛を深めた。当時の雑誌を見ては、「あのスタイルを撮りたい」と、60年代のカメラ機材を探し出して入手。そのカメラのモノクロフィルムでロングボーダーを撮ることにこだわった。
カレッジ卒業後、米国の永住権を得るため、寿司職人として働き始めたが、職人の世界は厳しく、下働きから始め、親方からはプライベートでサーフィンや海で撮影することすら「真剣に仕事してんのか」と、咎められた。それでも、「1枚でもいいから、自分の写真を世に出したい」と、夢を追った。
ショート全盛期の不遇

近くに本社があった「Surfer Magazine」を訪ね、60年代の機材で撮ったモノクロのロングボーダーの写真を持ち込んだ。だが、求められたのは、ショートボーダーを被写体とした写真。竹井さんが使っていた古いカメラでは、ショートボードの速いサーフィンを追うことはできなかった。
けんもほろろに断られた帰り道、改めて心に決めた。「カメラもレンズも古いけど、ビンテージやん。自分はロングボード撮ったらいいやん」と。「葛藤があったりなかったり、現実と理想を見たけど、やればやるほど写真が自分の空白を埋め、やりたい気持ちが加速した。60sとかやってる奴いてへんし、わざわざそれ狙って、それをやるのは面白かった」
そのころ、シングルフィンを押し出してきたジョエル・チューダーを撮ったら、とても喜び、連絡先を交換し、交流が始まった。
友人妻の早逝を機に帰国
しかし、丁稚のような扱いで5年間、寿司職人として働いても、永住権は発行されなかった。精神的に追い込まれていたころ、友人で、現代アートで知られるバリー・マギーの妻マーガレットが乳がんを患い、出産まで治療を伸ばした結果、我が子の誕生後すぐ、33歳で亡くなった。
「命ってこんなにあっけないの?」と愕然とした。アーティストの友人トーマス・キャンベルから「彼女を見ただろ。人生あっという間だ。永住権なんかなくても、アメリカには来れるだろ」と言われ、ハッとした。その足で寿司職人の親方に「今日やめます」と告げ、帰国。2004年のことだった。
当時の日本では、シングルフィン・ロングボードがリバイバルしていた。2000年代のロングボード専門誌で60sのサーフシーンを紹介する写真などが特集され、竹井さんはその雑誌を古書店や友人宅から集めた。サーフィン歴史保存協会の礎となる個人活動の始まりだった。ただ、正社員やアルバイトで食いつなぎながら、余裕がないためにカメラから離れ、数年が過ぎていた。
「ある日、引っ越しの用意してたら、写真のスライドの束をガシャーンって落としちゃった。片付けながら最後の写真見たら、アメリカのロングボーダーの写真で『こういう色はアメリカでしか出えへんもんなあ』ってふと思った」
かつての米国での撮影の日々に思いを馳せていた2009年、アメリカンカジュアルのアパレルからカリフォルニアでのプロモーション撮影の依頼が入った。以後、数カ月単位で、米国と日本を行き来する仕事に恵まれ、モノクロでのロングボード撮影を再開する。
ロブ・マチャドから「ヘイ・メン」

「相も変わらず、古い機材で撮った。『あいつまだ同じことやってる』って言われた」
NobodySurfの仕事で、顔見知りのロブ・マチャドを撮るよう頼まれることもあった。「僕、アメリカに復活してから、アパートとかいらんって思って、大きめの車に一切合切入れて生活してた。ロブはコーヒー飲みに行ったり波チェックとかで、目の前行ったり来たりして、僕が車の中に住んでるの知ってたけど、あえて余計なことは言わへん。『ヘイ・メン』とかって、全然ガツガツしてない。ジョエルには『おまえ、もう金貯まって、家の頭金ぐらいは出せるやろ』って言われたりしてたけど」
別のレジェンドサーファーで、物書きでもあったデヴォン・ハワードからは、自分について記事を書きたいと言われ、「THE SURFER’S JOURNAL」へ、ともに出向いた。ここでは、写真を始めて5年ほどの時に売り込みに行き、煮え湯を飲まされた経験があった。
「当時、白黒写真を見たエディターは一瞬でポートフォリオを閉じて『Nice, thank you』で終わり。がっかりした。ついでに、『うちの雑誌には、最低でもキャリア15年か20年で掲載っていうルールがある。もっとキャリア積んで来てくれ』って言われて、それは素直に受け入れた」
それから15年。キャリア20年となり、再会した同じエディターに、ほぼ同じ写真を見せた。すると、「Wow!」と何度も感嘆の声を上げ、すぐに掲載が決まった。「60sのトレンドが吹いてた」。時代が一周回り竹井さんに追いついたのだった。
60sスタイル20年を詰め込んだ写真集

その記事に目を止めた日本の出版社からオファーがあり、写真集の出版が決定。また、ジョエルのアドバイスに従い、デザインは米国だが、日本製の質の高い紙と製本技術を使ってクオリティを確保。手間はかかったが、日本語と英語の2カ国語で仕上げた。
2018年に発売された写真集「AUTHENTIC WAVE Surf Photography by Tatsuo Takei」は、60sを追い求めたカレッジ時代から20年間撮りためた、全編フィルム写真。カリフォルニアを縦断して、各地のサーフショップで行った出版記念イベントやサイン会では、持ち込んだ100冊が即ソールドアウトになるなど、各方面で絶賛された。
米国での60s愛が詰まった結晶としての写真集が出来上がった一方、日本では、60sサーフカルチャーの情報収集を続ける竹井さんのもとに、当時の写真やムービーなどが続々と持ち込まれるようになった。
日本サーフィン史に残る写真家・大山節夫

新型コロナウイルス禍で、米国への渡航が難しくなったタイミングで、これらの資料整理にフォーカスした。特に、西武百貨店でサーフボードの販促を担当していた故大山節夫さんが撮影したネガ500本、写真1万点は圧巻だった。
当時珍しい巨大なレンズで、1966~74年まで、湘南や千葉で波に乗る若者を生き生きと活写していた。当時はNSAの事務局が西武百貨店にあったほど、西武は日本のサーフカルチャーの黎明期に重要な役割を果たしていたという。

西武を退社後、フリーカメラマンとした活躍した大山さんは、残念ながら2018年に亡くなってしまったが、竹井さんは大山さんの兄を訪ね、1万点の写真すべてに番号を振って、著作権を譲り受け、展示の許可を得た。
竹井さんは「当時の最新の技術でサーフィンを撮影している。大山さんがクオリティの高い写真を撮ろうと高揚していたがの写真から伝わる」と、自身も興奮を隠しきれない様子で語る。
ほかにも、湘南で68、69年にフリーサーフィンを撮影したカメラマン武藤泰隆さんの2000点や、テッド阿出川さんから60年代、70年代の写真を預かっている。すべては、個人的に60sを集めていた竹井さんに対して、人づてにもたらされた縁だった。
2023年サーフィン歴史保存協会設立
資料が集まるにつれ、個人での活動に限界を感じてきた。「たくさんの資料を個人で収集、保管するのは無理がある。みんなに開放して、将来に引き継ぎ、世の中に残したい。僕らがやってることを知ってもらい、信頼を得るためにも法人化が必要だった」として、2023年にサーフィン歴史保存協会を立ち上げ、法人化した。



今回、パタゴニアで開催された展示は、数点の写真や大山さんのレンズ、テッドさん作成の初期のロングボードなどを見せる小規模なものだった。竹井さんは「いずれは、他のスポーツのようにミュージアムのようなものができたらいいけど、最初はサーカステントみたいに解体できるキャラバンにして、日本全国で写真や資料が展示できるやり方がいいかもしれない。とにかく、大山さんが亡くなってしまったことを教訓に、当時の人たちがしっかりしているうちに動きたい」
ちなみに、日本で最初のサーフィンは米軍やその家族らが持ち込んだとされ、湘南、千葉で波に乗り、地元の若者がサーフボードを貸してもらうなどして広まったという。千葉では、道路の高架橋やテトラなどの人工構造物ができる前の、勝浦のマリブや鴨川のシーサイドなどのポイントから始まったとの話だ。
トークショーに60人

パタゴニア千葉・一宮で開かれたトークイベントには、約60人の聴衆にパタゴニアブランドの缶ビールが振舞われ、レジェンドたちが再会を喜ぶ姿もあちこちにあった。
竹井さんは自らの「オタク気質」を前面に出しながら、大山さんが撮影した1966年第1回全日本選手権の写真や、16ミリ、8ミリフィルムでの七里ケ浜、稲村ケ崎での若者たちのライディング、ロングボードからショートボードへの過渡期などの鮮明な記録を上映した。

そして、今後の課題として、「資料の調査・保存」「活動資金の確保」「ミュージアムなど物理的な場所の確保」を挙げ、クラウドファンディングでの支援や、自宅に眠る古い写真、サーフボード、パンフレットなどの寄託・寄贈を呼びかけた。
イベントを主催したパタゴニアのスポーツカテゴリーマーケター牧野知生さんは「竹井さんとパタゴニアは、写真集を出した時、カリフォルニア州カーディフのパタゴニアでイベントをした時以来のつながり。海洋環境の再生や生態系の保護を目的としたウォーター・ピープルのキャンペーンを打ち出す中で、日本のサーフヒストリーの紹介はパタゴニアの理念とすごく合う。当時のサーファーだけでなく、20代の若者もカルチャーとしてサーフィンをとらえる人々がすごく興味を寄せてくれている」と手応えを口にした。

竹井さんは現在、日本でもバンに乗り込み、東北や九州、四国地方などでサーフィンの歴史を自ら訪ね歩く日々を送っている。昔の資料がある方は、お声がけしてみては。


竹井さんのインスタグラムはこちら。
(沢田千秋)
























