yakimavalleyhops.com 他 collage by Ri Ryo

“EDDIE WOULD GO” の原点、エディ・アイカウ伝説の新たな見解(その①)

EDDIE WOULD GO” の本来の意味とは…、ハワイの英雄はスーパーマンか?


最近サーフジャーナリストのマット・ワルショーが、彼のブログでエディ・アイカウとそのメモリアルコンテストについて意見を表明した。それは批判的な視点も含まれているものの、元米サーファー誌の編集長で、数々の著書も手がける彼の言葉と考えれば、やはり重く受け止めるべきだろう。

彼の主張を要約すると次のとおりになる。エディが不慮の事故に遭った1978年に、ワイメアベイで行われた追悼セレモニーには、土曜日にも関わらずわずか1000人に満たない参列者しか集まらなかった。もし、現在それが催されていればおそらく数万人がワイメアベイに集まるだろう。この変化は、彼の名を冠したビッグウェーブコンテストが開催されて、“EDDIE WOULD GO” というキャッチーなフレーズが世界中に広まった結果だという。残念なことは、そこに商業主義的な匂いが感じられ、関係者の思惑でエディ・アイカウが、まるで完全無欠の英雄として過剰に讃えられていることだ。しかしエディはスーパーマンではなく普通の人間で、人生を生き抜くために喜びや悲しみを抱えながら日々を過ごしていた。それを我々は忘れてはならない。

エディの追悼式、当日ワイメアのライフガードタワーには「担当者不在」と示された The Honolulu Star-Bulletin よりEOS経由

ここで断っておくが、ワルショーはエディ・アイカウの功績を軽視していない。近代サーフィンの父でゴールドメダリストのデューク・カハナモクに並び称される風潮にも肯定的で、それに値する人物だと認めている。さらに彼のメモリアルコンテストについても否定していない。しかし世界中で “EDDIE WOULD GO” と記されたTシャツやバンパーステッカーが流通しているのを目の当たりにして「ちょっとやり過ぎじゃないのかな」と感じているのだろう。

さて、あなたはどう思われるだろうか、筆者としては英雄伝説というのは、良くも悪くもこうやって作られていくのではと感じる気持ちは否定できない。さらにビッグウェイブでしか開催しないというスタンスは、運営側も招待された選手も大変なのは理解できる。

だからコンテストを存続するためにステッカーやTシャツをたくさん売って…というならば納得するけど、収支のバランスシートは外部からは推測するしかないし、ワルショーは活字にできない事実を知っているのかもしれない。アイカウ家とサポートしていた企業が数年前に決裂したけどそれなりの理由はあるのだろう。“EDDIE WOULD GO” という言葉は日本ではそれほど見かけないけど、海外ではかなり認知され勝手に1人歩きしているようで、ついには同名のロックバンドまで登場している。こうなってくるとワルショーが指摘するような違和感を覚える。

第1回はサンセットビーチだった

さてエディ・アイカウのメモリアルコンテスト「The Eddie Aikau Big Wave Invitational」は40年を経て確かに大きく成長した。特大のビッグウェイブでしか開催しないという心意気には大いに賛同したい。このコンテストは、選手として出場するだけでも大きな名誉だ。しかし意外と知られていないが第1回の試合は1984年にサンセットビーチで行われ波のサイズはなんと6~8フィート、優勝はデントン・ミヤムラで賞金は5000ドルだった。翌年から場所はワイメアへと移りビッグウェイブのパイオニアであるジョージ・ダウニングをコンテストディレクターとして迎え、波のサイズはミニマムでも20フィートとなった。

ちなみに2024年のシーズンは松岡彗斗が日本人として招待され注目されているので、ここで認識を新たにするためにもエディ・アイカウの足跡や意外と知られていない “EDDIE WOULD GO” という言葉の由来についても触れたいと思う。
(これまで久我孝男と脇田貴之の2人も過去に招待されている)

エディ・アイカウという1人のサーファー

エディ・アイカウは1946年にマウイ島のカフルイで生まれ、サーフィンは11歳ではじめた。エディが13歳のときに家族はオアフ島へと移る。16歳で学校をドロップアウトしパイナップル工場で働くようになる。その時期から彼はワイメアベイでのビッグウェイブサーフィンで頭角を表し、その実績が認められて1971年にノースショアーのライフガードとして働くようになった。

アイカウはハワイでのコンテストでも輝かしい成績を収めていて、デューク・カハナモクインビテーショナルでは1966年から1974年まで連続してファイナリストに残り1977年には後に世界チャンピオンになるマーク・リチャーズとウェイン・バーソロミュー、そしてデーン・ケアロハ他を抑えて優勝している。世界ランキングの最高位は12位。また彼の写真は米ライフ誌や、バンクオブアメリカの広告キャンペーンでも使用された。

しかし1978年に古代のアウトリガーカヌーを復元したホクレア号に乗船し遭難。絶望的な状況の中、救助を求めてサーフボードでラナイ島までパドルで横断しようと試みて消息を絶った。ちなみに、ホクレア号でタヒチへ向かう準備をしている頃、エディは最愛の弟を交通事故で亡くし、さらに離婚の危機にも直面するという失意のどん底にいた。

ワイメアで初のライフガードとなったエディ、500名以上の命を救ったと言われている 映画 Howzit Bradda! より

”EDDIE WOULD GO” の本当の意味

さて、“EDDIE WOULD GO” というフレーズ、英語が苦手な日本人には、スッと意味が飲み込めないかもしれない。それはwouldという単語をどう訳していいか迷ってしまうからだろう。wouldは「たぶん」とか「おそらく」という90%くらいの可能性を予想するときによく使われる。しかし意味は分からなくても記憶には残るという不思議なパワーがこの “EDDIE WOULD GO” にはある。

じつは英語がネイティブの人でもこのフレーズは「謎かけ」のように聞こえるはず。「エディって誰?」「どこに行くんだ?」と考えそして深く納得する。「そうか、エディならきっとその大波をサーフしたぜ」の意味だと。

しかし、これは正解でもあり不正解でもある。というのも、エディの生前からこの言葉は存在していたからだ。エディはワイメアで初めてのライフガードとなり、多くの人を救出している。当時はリーシュコードをしないでサーフすることが一般的だったから、サーフボードを流してしまうと強烈なカレントに流されて事故が多発した。

そこで行政からエディが雇われることになったのだろうと推察される。一説によれば、彼は500件以上の水難救助をして溺死者を1人も出さなかったという。ビッグウェイブになるとエディにしか救助に向かえなかったという状況が、当時のワイメアベイにはあった。だから「エディなら救助に行けるだろう」と周囲のライフガードたちが口にしたのがこの言葉の始まりだ。“EDDIE WOULD GO” はサーフィンではなく救助のときに使われた言葉が最初だった。

しかし、この言葉がキャッチコピーとして世に出るにはもう一つの出来事がある。エディが帰らぬ人となり、メモリアルコンテストが開かれたときだ。ワイメアベイがクローズアウトで波が大きくなりすぎて開催が検討されているときに、選手の1人マーク・フーがインタビューで「エディならきっと行ったぜ」と答えた。ワイメアの常連だったフーが “EDDIE WOULD GO” という決まり文句をすでにライフガードたちから耳にしていたことは想像に難くない。当時、リアルタイムでこの映像を見たアパレルメーカーのある人物が「それだ!」と叫びキャンペーンとして利用するようになったというエピソードがある。これで “EDDIE WOULD GO” の由来をご理解いただけたかと思う。

次回、「エディ・アイカウ伝説の新たな見解(その②)」ではホクレア号の事故について詳しく説明したい。

(李リョウ)

参考資料:archive.hokulea.com、Encyclopedia of Surfing、映画 Howzit Bradda!

blank

「国内外サーフィン界の最新トレンド・ニュースを読み解く」をコンセプトに、最新サーフィンニュースをお届けします。

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等を禁じます。