あのPCRを発明してノーベル賞をとったサーファー キャリー・マリス

文・李リョウ

『女性が好き、酒が好き、パーティーが好き、そしてドラッグも好き?』サーファー、キャリー・マリスは天才科学者か?それとも?

ここ数年パンデミックによって『PCR』という3文字を耳にしない日はない。もちろんPCRとは新型コロナウィルスの検査などで用いられる手法のことだ。もしこの検査が発明されていなかったら人類は今よりもずっと深刻な事態を招いていたかもしれない。だからPCRは人類の救世主と言っても過言ではない。

では、そのPCRを発明したのが、カリフォルニアのサーファーだってことを知っているだろうか?唐突に言われても誰も信じないかもしれない。でも嘘ではなく本当の話。そのサーファー/科学者はキャリー・マリスという。

サーフィンが大好きなキャリー・マリスは、サンディゴのラホヤに住んでいた(2019年没)。ラホヤというとあのサーフポイント、ブラックスの近くだ。学生サーファーがいっぱいいるカリフォルニア州立大学サンディゴ校もある。

スウェーデンのグスタフ国王からノーベル化学賞を授与されるマリス

マリスはガールフレンドとのデート中に、PCRのアイデアを思いついたのだという。DNAの超微細な断片をPCR法によって増幅することによって、DNAの配列を解読できるようにする。と言ってもなにがなんだか筆者にはさっぱり分からないけどね。とにかくPCRは、ウィルスだけでなくどんなDNAでも解読してしまうらしい、この発明でマリスは1993年にノーベル化学賞を受賞した。

サーファーがノーベル賞を受賞した、ということでアメリカでは話題になり一般メディアで大々的に取り上げられたが、サーフ系雑誌ではそれほど取り上げられなかったようだ。「サーフィンが上手くなる発明」でもすれば別だろうけど、ノーベル賞ってサーファーにとってはサーフワックスのラベルくらいの重みしかない、と言ったら怒られるかな。(そんなことないか)

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キャリー・マリス博士のHPに掲載されているPCRについての項目 www.karymullis.com

おそらく日本のサーフィン界でもマリスはほとんど無名に近い。彼の自叙伝『マリス博士の奇想天外な人生』が日本語で出版されているが、読む人はサーファーというよりも、科学に興味がある一般の人がほとんどかもしれない。だが、驚くなかれ筆者は過去にその本を読んだことがある。書店で見かけた表紙のサーフボードに「おやっ」と思ったからだ。しかし読後の印象は薄かった。たしか20年くらい昔だったかな。

ところが今年になって、TSN編集部から、PCRを発明した人が、サーファーだということを知っているかという問い合わせがあった。すぐにキャリー・マリスのことを思い出した。「たぶんあの人だろう。でも、PCRのことなんか書いてあったかな?」とにかく、いま話題のPCRを発明した人ということで、認識が新たになった筆者は、彼の自叙伝をアマゾンから購入してもう一度読んでみることにした。するとPCRという言葉が、出てくる出てくる!やがて記憶の断片が蘇り、新たに読み直した文章とがコネクトして、この本の魅力にやっと気づくことができた。それは彼が「サーファー的生き方」を実践しているということだ。

アメリカのエスクワイア誌 https://classic.esquire.com

さて、サーファーと一口で言ってもさまざまだ。ビッグウェーブに挑む猛者から、日々の気分転換として波と遊ぶだけの人もいる。おそらくこのマリス氏はその後者の部類に入るのだろうと筆者は思っていた。しかし本を改めて読んでみると、彼がリアルサーファーだということに気づいた。彼のサーフィンの腕前はそこそこだと思うが、彼の生き方がまるでサーファーライクなのだ。まず一般社会の枠にははまらない。高価な物を所有して自分の権威を高めようとしない。そして女性が好きで、酒が好きで、パーティーが好き、そしてドラッグも好き?な人なのだ。それってサーファーでしょ?(サーファーの定義についてご意見はさまざまだとは思いますが…それは別の機会で)

つまり、マリスは優秀な頭脳を持っているから、「仕事は科学者」かもしれないが、彼はサーファーとしての(のような)生き方を実践している男なのだ。その自由奔放な生き方が、PCRの発想の源泉になったことに疑いの余地はない。(筆者の独断です)

その彼の自叙伝『マリス博士の奇想天外な人生』のあとがきで訳者福岡伸一氏がこんなことを書いている。

「マリスは、アカデミズムの塔にこもる大御所教授のイメージとは対局に位置する人物だ。実際、マリスは有名大学とかエリート研究機関といったアカデミックな場所で定職に就いていたことは一度もなく、彼が書いた学術論文は数えるほどしかない。ある時など、研究を離れてファーストフード店で働いていたこともあったほどだ。」
ー『マリス博士の奇想天外な人生』訳者福岡伸一のあとがきより

そう、彼はサーファーでありアウトローなのだ。一般社会の枠にははまらない生き方をし、価値観も一般の常識とは異なる。サーフィンのために海の近くに住み、自家用車はホンダの小型車。高級車に乗って自分の成功を誇示するようなことは性分に合わないのだと本人が自ら語っている。

そこで、今回は彼の自叙伝『マリス博士の奇想天外な人生』からサーファーが興味を示しそうなエピソードをいくつか引用してご紹介したいと思う。科学的な内容は眠くなるから削除して、笑えるエピソードだけつまみ食いしようというわけだ。サーフィンというテーマからは少し外れる内容もあるが、サーファー的生き方という観点からなら合致するだろうと思うし、もしサーファーでない人が読めば、サーファーがいかに自堕落かというところも理解できる笑。天才的な頭脳を持った反骨精神旺盛な科学者がサーファーになったらこうなる。という好例でもある。


『マリス博士の奇想天外な人生』より

「マリス博士の奇想天外な人生」早川書房、訳者福岡伸一

エピソード1

「ラホヤでの私の住まいは、カリフォルニアでも最高の波乗りができる海岸のそばにある。波は本当に精妙な生き物である。ラホヤに打ち寄せる最高の波は、太平洋のはるかかなたで生まれる。おそらくニュージーランドあたりで、嵐を運んでくる低気圧が大洋から膨大な質量の海水を上空に持ち上げる。(中略)サーフィンは朝にかぎる。風が静かだから。水はすきとおるくらい透明だ。手でボードをこいで沖に出る。そしてしばらくそこに停止して、友人たちと会話を交わす。やがてすばらしい波がやってくるのが見える。」

エピソード2

「私が生化学を選らんだ理由には、もう一つ不純な動機もあった。宇宙物理学はきわめて抽象的な話が多い。22歳の女性に対して会話が成り立つはずもない。生化学ならたとえば、クスリの話ができる。MDAの効果って知っているかい?これを飲むとなんとなく身体が熱くなり、服を脱ぎたくなるんだよ。それからゆっくり楽しい時間を過ごすことができる。という具合に。」

エピソード3

「時を経て私はPCRを発明した。私はプロの科学者になっていた。私にはその発見の意味がよく分かっていた。(中略)PCRに高額の装置は必要ない。PCRによって超微量のDNAを検出できる。(中略)この方法は遺伝子疾患の診断にも有用だ。(中略)PCRは犯罪捜査でも活躍する。古代遺跡から採取されたDNAを分析して進化を語ることもできる。」

エピソード4

「PCRが野火のごとく世界中に広まっていくであろうと、私は確信していた。(中略)だが<ネイチャー>編集部の返事は「却下」だった。<サイエンス>もこの発見を認めなかった。「貴殿の論文はわれわれの読者の要求基準に達しないので、別のもう少し審査基準の甘い雑誌に投稿されたし」と。この野郎、と私はうめいた。」

エピソード5

「その手紙は日本国際賞に私が選ばれたとの知らせであった。日本国際賞の賞金は5000万円だった。私は日本に向けて出発した。授賞式では天皇と皇后に会うことができた。日本の皇后に向かって「スウィーティー(かわい子ちゃん)」と挨拶したのはたぶん後にも先にも私だけだろう。皇后は私の無礼に対してもまったく寛容な態度を示してくれた。」

エピソード6

「そこへサーファー仲間のスティーブ・ジャッドがやって来た。彼はだいたいいつもこの時間、7時ごろに誘いに来るのである。私は彼に言った。「おれノーベル賞をとってしまったんだ」彼は言った。「知っているよ、来る途中にラジオで言っていた。それより早くサーフィンに行こうぜ」」

英語版の表紙 “Dancing Naked in the Mind Field” 意味は『心の原野で裸になって踊る』

エピソード7

「ノーベル賞のアメリカ人受賞者はスウェーデンに行く前に、ホワイトハウスに招待された。クリントンは昔マリファナのジョイントを吸ったことがあるとの疑惑を報道された。そのとき彼は、確かに口にはしたが吸い込みはしなかった、と答えている。そこで私の質問はこうだ。「大統領、あなたがジョイントを吸わなかったのを見て、回し飲みしていた仲間たちは、もう一度あなたにジョイントを回してくれましたか?かわりにこう言いませんでしたか『おい、ビル、それって1オンス400ドルもするんだぜ、もったいないじゃないか』って」きっと彼はニヤリとせずにはいられなかったと思う。」

エピソード8

「メディアは科学者の思いのままだ。科学者の中には、メディアを実にうまく言いくるめる能力にたけた人々がいる。そしてそのような有能な科学者たちは、地球を守ろうなどとは露も思っていない。彼らがもっぱら考えているのは、地位や収入のことである。」


さて、いかがでしょうか。まるでサーファーが酒の席で話す武勇伝や、ずっこけ話じゃないかという印象を筆者は持った。だから「あんたサーファーだねえ」と肩を叩きたくなるくらい彼にシンパシーを抱いた。しかしその一方で、その頭脳明晰かつ広範囲な知識と応用力は、天才と呼ぶにふさわしい人物だと筆者はあらためて敬服した。

サーファーとサイエンティストを隔てるギャップを行き来するところがキャリー・マリスの魅力だと筆者は思う。こんな男なかなかいない。残念なことは一般社会では、彼のその魅力に気づく人は、自由なアメリカでも少数ではないかと感じるところだ。しかし繰り返すけれどサーファーならば、彼の「ノリ」が理解できて「面白い奴」と仲間内で認められる存在になるはず、そう思いませんか?

最後に、彼の著書の訳者がマリス氏にインタビューを試みたときの一文を紹介したい。さらにTEDで彼が講演した貴重な映像も最後に加えた。興味のある方はぜひご覧になっていただければと思う。

――この世界のなかのどんなことに心を魅かれますか?

マリス博士「ブロードな(広い)知識とナローな(狭い)知識という言い方があるだろう。私は、この言葉を普通の人とはまったく別の意味で使いたいんだ。私はつねにナローな知識に注目する。ナローな知識こそ、ブロードな世界を説明することができるんだ。たとえば、ある物質に関する有機化学。それ自体は狭い専門知識だけど、この世界のすべての局面と連結する細部を含んでいる。そういう風に世界を見たいんだ。ブロードな知識は表層をなぞるしかできないからね。」

(李リョウ)

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