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世界プロツアー誕生前夜。その二
『WSL』の育ての親、ASPは組織の内部分裂によって誕生した

シリーズ「サーフィン新世紀」17

世界プロツアーはどのように生まれたのか。「世界プロツアー誕生前夜。その一」はこちら


アップデートされたプロ組織

ASPは、世界のプロサーフィンを統治する組織で元世界ランキング2位のオーストラリア人イアン・カーンズが1982年にIPS(インターナショナル・プロフェッショナル・サーファーズ)から新たに創設した。

IPSの功績は、1976年にそれまで個々に開催されていた体制の悪いコンテストをひとつにまとめて国際的なプロサーキットにまとめあげたことだが、運営された5年間は乏しい賞金総額と、メディアの注目度やプロスポーツ界での立ち位置なども満足のいく成果は上げられなかった。

IPSの成長が芳しくないために、選手やコンテストのスポンサーからは不満が噴出した。そして1982年のシーズンが終わるとカーンズは、彼自身が新たな組織を創設すれば選手たちも従うと確信して、サーフウェアの大手オーシャンパシフィックの援助を受けてASPを立ち上げた。

wsl.com

カーンズがまず着手したことはワールドツアーの本部をハワイ・ノースショアからカリフォルニアのハンティントンビーチへ移したことだった。そして試合数を増やした。IPSの1982年シーズンはメンズデビジョンで12のイベント、賞金総額の合計は338,100ドル(約3,700万円)だった。

しかし1983年のASPでは試合数が16に増え、さらにオーストラリアでの「スペシャリティーイベント」が4つ増やされた。賞金の総額は487,900ドル(約5,300万円)。選手は賞金の増額には歓迎したが、試合数が増えてスケジュールに追われるようになってしまった。

またASPはハワイのコンテストプロモーターとの間に対立を起こし、これまでの7年間、シーズンのクライマックスとなっていたハワイからオーストラリアへと移さなければならなくなった。この決定によりツアーの魅力は大きく損なわれ、スケジュールが後ろ倒しとなりASPの威信が損なわれることになった。

それからの20年、自ら招いたさまざまな過ちでASPは健全な成長を妨げたることになる。その結果、トップランキングの選手たちがツアーを離れる事態に発展する。その例が3度の世界チャンピオンになったトム・カレンで、彼は年間25もの試合数の消化に燃え尽きてしまい、80年代から90年代の初期までツアーから引退してしまった。

さらに80年代には、他のスポーツがアパルトヘイトに反対するために南アフリカでの試合開催を拒否するなかでASPは試合を強行した。(数名の選手は出場を辞退した)

ASPの自己中心的な体質が開催するイベントは、派手で巨大化し、さながらビーチカーニバル化しOPプロが開催された1986年のハンティントンビーチでの暴動に繋がった。

1986年のOPプロ開催中に起こった暴動ではパトカーが燃やされた

1984年にOPはASPのスポンサーから降り、1993年はコカコーラがツアーのアンブレラスポンサーにサインし1997年まで続いた。スポーツ時計で有名なG-ショックが1999年にツアーをスポンサーし2000年は契約を更新しなかった。ASPのプロサーフィンを大衆スポーツの1つに、という夢はいくらかは達成したが2000年の初期から組織は衰退した。

「一般大衆にコンペティティブなサーフィンが観戦に値することを示せた。」とサーフジャーナリスト、サム・ジョージは語った。「でもそこにサーフィンの本質があると、僕たちは信じていない。」

ASPは多くの優秀な世界チャンピオンを排出したことは事実だ。その中にはトム・キャロル、フリーダ・ザンバ、マーティン・ポッター、ケリー・スレーター、マーク・オクルーポ、サニー・ガルシア、リサ・アンダーソン、レイン・ビーチェリー、ステファニー・ギルモアそしてカリッサ・ムーアなどが名を連ねる。

1992年から試合の開催数は減り、その後しだいにグッドウェーブの期待できないビーチブレイクの試合から、ハイパフォーマンスのサーフィンが可能となるリーフブレイクへと試合会場が変わっていった。グラジガン、チョープーそしてクラウドブレイクなどである。そのことにより試合は「ドリームツアー」と呼ばれるようになった。

Gランドで開催されたクイックシルバープロ wsl.com

そして1994年のシーズンを除いて、1988年からシーズンのファイナルステージはハワイへと戻った。

ASPは1986年からロングボードの世界タイトルを開催、また1997年からはマスターズデビジョン(36才以上)、1998年にはジュニアデビジョン(19才以下)の世界タイトルを創設した。

2006年にはウイメンズのロングボードデビジョンが新たに設けられた。1992年になるとASPはWCTとWQSという2リーグからなる世界戦を運営することを発表した。WQSはWCTのためのマイナーリーグという位置付けとなった。しかしこのフォーマットは2010年には終了し、さらに複雑なシステムへと変更された。それはASPプライムとスターイベント(かつてのWQSイベント)の結果が加味されてシーズン途中のランキング入れ替えが行われるというものだった。

2012年になるとASPは再び2リーグ制に戻り、WCTランキングはワールドツアーの結果だけとなり、プライムとスターイベントはクオリファイサーキットとしての位置付けとなった。現在WCTのサーキットはメンズ34名、ウイメンズ17名で世界タイトルが争われている。
(試合数はメンズが10,ウイメンズは7)2012年の時点でスターイベントは28,プライムイベントは9つで、サーファーはASPの支部的な組織が運営するそれらの試合に挑戦して WCTへのクオリファイを目指す。
WCTのコンテストの最低賞金総額はメンズで425000ドル(約4600万円)、ウイメンズが110,000ドル(約1200万円)(2019年より男女の賞金額は同額となった)

ASPはケリー・スレーターというスーパースターを生んだ。wsl.com

ASPのエクゼクティブ・ディレクターは1987年から1994年まではオーストラリア人のグラハム・キャシディーが務めた。その後は南アフリカのグラハム・スタベルバーグ(1995~1998)、元世界チャンピオンのウェイン”ラビット”バーソロミュー(1999~2009)そしてオーストラリアのブロディー・カー(2009~2011)が務めた。
カーは2011年にケリー・スレーターの世界タイトルのポイントランキングをミスし早まって発表してしまいそれが原因で辞任。

ASPのオフィスは1999年にオーストラリアのクイーンズランドへ移動。2012年の時点でASPのメンバー(登録サーファー)は1600名以上。

2012年の10月、フロリダの資産家、ダーク・ジフによる新興メディア企業のゾシーがASPとパートナーシップを組むことになりワールドツアーの放映権を獲得する。ゾシーのトップには11度の世界タイトルを持つケリー・スレーターのマネージャー、テリー・ハーディーや元クイックシルバーとNFLのエクゼクティブを務めたポール・スピーカー等が居る。2013年になるとそのスピーカーがASPのCEOに就任し組織の名前がASPから WSL(ワールドサーフリーグ)に変更された。

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ASPから新たに生まれ変わったWSLと、その内側を描いた記事『Mixed Results:混沌としたリザルト』がサーファーズジャーナル日本版8-2(27-2)に掲載された。

Ref:TSJJ

この記事はマット・ワルショーのサーフィン百科事典を基に構成いたしました。
This article is based on The Encyclopedia of Surfing by Matt Warshaw
https://eos.surf

(李リョウ)

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