ハナレイのシェープルームにて photo:RiRyo

サーフボードデザイン界の巨星逝く(ディック・ブルーワー物語、その一)

デイック・ブルーワーの訃報が、SNSによって世界中を駆け巡った。故人は「サーフボードデザインに多大な影響を及ぼした人」としてサーフィンの世界で広く知られているが、その人生は謎が多い。例えば、ハワイ出身ではないし、頑固な職人気質のサーフボードビルダーと思いきや、カリフォルニア州立大学で機械工学を専攻していたインテリでもあった。また彼は「ショートボードデザインの改革者」というイメージが強いが、すでにロングボードの時代にホビーやビングなどで数々の名作を生み出している。さらにサーファーとしても卓越した才能を持っていたディック・ブルーワーは、米サーファー誌によってノースショアーの歴代ビッグウェーバーの一人にも挙げられている。

あまり知られてこなかった、デイック・ブルーワーが歩んできた足跡を、追悼の意味も込めて筆者の資料からまとめてみた。参考資料は1999年のサーファーズジャーナルに掲載された”The Life and Work of Richard Brewer”by Drew Kampion と Encyclopedia of Surfing by Matt by Matt Warshaw他である。

60年代後期のディック・ブルーワー、ハンテンの広告 Encyclopedia of Surfing

ディック・ブルーワーことリチャード・アレン・ブルーワー(ディックは愛称)は、1936年10月13日にミネソタ州のペミジー市に生まれた。そこは五大湖に近く、三方はインディアン居留区に囲まれている。リチャードの祖父は、マサチューセッツ工科大出身のエリートでクウェーカー教徒。父親のチャールズ・ブルーワーは航空機関連のエンジニアであった。リチャードには一歳半年上の兄がいた。母シルビア・アン・ブルーワーは良妻賢母であったが、頭部に負った怪我がもとで40代にしてこの世を去っている。ちなみに彼女は、北欧ノルウェーの狩猟部族とアメリカインディアンの血統を持つ家系に生まれていている。

1939年にブルーワー家は、カリフォルニア州ロングビーチへと移る。その後、父親は内陸部のウィッテイアに家を建て、家族で引っ越すことになった。リチャードは高校生になってから、水球部に入部しさらに芝刈りのバイトや父親の仕事を精力的に手伝って金を稼いだ。当時、彼が最も興味があったのは、U-コン模型飛行機の設計と製作で、西海岸のスタント選手権で3位に入賞している。「わたしがデザインした飛行機は速さと操作性に優れていた。今でも十分に戦える性能があるよ。」とブルーワーは回想している。

工学に長けていたリチャードは、高校生でありながらパワーボートやドラッグカーのエンジンをチューンナップする会社でバイトをするようになる。「工場にあった機械はなんでも操作できる16才の生意気なガキだったな」

リチャードがサーフィンと出会ったのも同時期であった。最初のサーフボードは古いデール・ベルジーであった。数年後にカスタムで作ったのがディッグバリー・モアーによる9’x20”のバルサ製だった。「ウッディ・ブラウンのテンプレートで作られたダブルエンダーで、今でいうセミガンのようなボードだった。シングルレイヤーだったから、友達が持っていたホビーのフォーム製ボードより軽かった。ハワイに行くまでの2年間、そのボードでカリフォルニアの波を乗りまくったな。ルナダベイ、コトンズポイント、ウィディアンシー、ベンチュラオーバーヘッド。その経験で9フィートのボードでも15フィートの波に乗れることはすでに理解していた」(9フィートは当時としては短かった)

カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に進学したリチャードは、夜は機械工として働いた。当時はサーフィンだけでなく車のレースにもリチャードは情熱を燃やした。「内陸部の友人はみんなドラッグレーサーだった。わたしもハンティントンのピアへ、スーパーチャージャーの車で現れて、2ブロックほどかっ飛ばし『あれはデイック・ブルーワーだ』と注目されたものさ」

学生時代のリチャード・ブルーワーは(中心)は生徒会長のような地位に就いていたこともあった。 The Life and Work of Richard Brewer”by Drew Kampionより

やがてブルーワーは、車のチューンナップだけでなくサーフボードのシェーピングにも興味を示すようになった。「サーフボードをシェープしたくてボブ・オルソンやゴーディそしてベルジーの仕事を見たんだ。どうやれば良いかがわかって、たぶん自分ならもっと上手くやれるだろうと思ったよ」

ブルーワーは時間があればハンティントンビーチやシールビーチ、パワープラントでサーフした。「パワープラントは冬でも水が暖かくて好きだったね。まだ学生だったわたしは、車で眠ってどこかのビーチで目を覚まし、夜明けにはパドルアウト。授業がなければ一日中サーフィンをしていた」

彼が最初にシェープしたボードは、ジョー・クイッグのバルサボードからとったテンプレートを使用した。「ハロルド・ウォーカーがニューポートでフォームを発泡しだしたんだ。そのウォーカーフォームを買って最初のガンを作った。9’10”だった。それでワイメアをサーフしたが十分に機能したね。サーフサイドにあったガレージで作業をしたんだ。ハワイへ行くことになってそこは引き払った」

初めてのハワイ旅行を終えてカリフォルニアへ戻ったブルーワーは、デューイ・ウェーバーのチームに勧誘されて8’6”のサーフボードを与えられる。しかしハワイへの想いが断ち切れず、大学の単位を残したまま、ハワイへ再び戻ってしまう。

リチャード・ブルーワー(左)とバジー・トレント(右),ホビー&デイック・ブルーワーモデルの広告

ハワイに戻ったブルーワーは、アラモアナのアパートメントに住むことになり、ウォルター・フィリップスと同居した。カリフォルニアから持ってきた8’6”のウェーバーはチャンズリーフやアラモアナでも機能した。だがブルーワーはノースショアー用にドナルド・タカヤマの9’x20”ドロップレイルを手に入れた。そのDTはスモールコンデションのサンセットでよく機能したが、マイク・ディフェンダーファーやバジー・トレントからは、もっと長いボードを使うべきだと言われた。

ブルーワーは、そのころのパット・カレンのシェープを覚えている。「パットに注文するときは、テールから何フィートくらいまでフラットエリアがいいのかと彼が客に質問するんだ。その前方は大きなベリーボトムとなっていた。そこでディフがフラットエリアは7フィートと言い、一緒にシェープを手伝った。フラットボトムはパーフェクトなストレートとなって、テールにかけてカミソリのようにシャープなドロップレイル、フロントはベリーボトムで、パット・カレン自身が作った11インチベースのフィンが備えられた。完成したとき、そこにはわたしとディフ、ブッチ(バン・アーツダレン)がいた。ディフはそれを見て「パットには敵わないな」とつぶやいたよ。

ブルーワーはサーファーとしても海で頭角を現し、ワイメアやサンセットのノースウエストのピークにも挑んでいった。彼はグーフィーフッターで、まだそれほどの名声は得ていなかったが、すぐにノースショアーのサーファーたちに仲間として認められた。

海や陸の上でも周囲の信頼を得ていきながら、ブルーワーは将来について考えるようになった。「航空エンジニアになる夢を捨てて、サーフボードをデザインする方が楽しいだろうなと思うようになった。それならば、この世界にどっぷり浸かろうって決心したのさ」

ブルーワーのチームライダーであった頃のジェリー・ロペス brewersurfboards.com

60-61年の冬のシーズンになるとブルーワーは「サーフボードハワイ」という店をハレイワに開く。スキューバーダイビング用のボンベに空気を充填したり、ハロルド・イギーがシェープしたデューイウェーバーや、スコールのサーフボードを販売した。またブルーワー自身も自分用としてシェープを始めた。

「ボブ・シェパードが先生だったといえる」とブルーワー「彼は技術を教えてくれた。シェパードはクイッグのようにナチュラルカーブとコンケープを取り入れた。パット・カレンからも影響を受けた。パットは友達でもあったけど、彼のボードはレールがシャープで完全にフラットなエリアがあったからスティッキー(粘着質)だった。だからわたしはコンケープやソフトなレール、ナチュラルなロッカーを選んだ」

ブルーワーがガンを作り始めると、彼に本来備わっていたエンジニアとしての才能が目を覚ました。クラフトマンシップを開眼させたブルーワーは、サーフボードビルダーとしての経験が浅いにも関わらず、その卓越した精度はボードに反映された。「ガンはすでに何本か作っていたが、1961年のマカハのコンテストで、わたしのボードに乗ったバッファロー・ケアウラナが優勝すると、サーフボードハワイの人気が高まった。ホノルルのウイグハム・デパートから月50本の注文が舞い込んだ。それでビジネスがスタートしたんだ」

ハワイで、ビジネスの上昇気流に乗りだしたサーフボードハワイだったが、大きな落とし穴が、ブルーワーに待ち構えていた。ジョン・プライスという男が、カリフォルニアでサーフボードハワイの支社を設立したいと持ちかけてきたのだ。その話に乗ったブルーワーは契約を交わしたが、その男が食わせ者で、ブルーワーにロイヤリティを払うまえにその権利を他の会社に売り払ってしまった。落とし穴はそれだけではなかった。ブルーワーはサーフボードハワイの商標をハワイのみで使用する権利をまだ持っていた。そこでチャーリー・ガレントという男を信用して、その権利を売ることにしたが、結局その売却益をブルーワーは得ることができなかった。

サーフボードハワイとは決別したブルーワーは、1965年にホビー・アルターの元で働くようになった。ホビーはビッグウェーブ用ボードのためにブルーワーを雇い、デイック・ブルーワーモデルを発表するが、それはブルーワーがこれまでノースショアーで培った経験の集約であった。当時のブルーワーのサーフボードはノースショアーで大きな成果を上げていた。ジェフ・ハックマンが初めてデュークで優勝したときは、10’ガンのブルーワー&ホビーモデルだった。エディ・アイカウが乗った有名なホビーの赤いガンもブルーワーのシェープだった。バジー・トレントがホビーの広告に出たときもブルーワーのガンを持っていた。(出演料はサーフボード一本だけで本人は不満であったらしい)

その後、ブルーワーはサーフボードの開発費のことでアルターと折り合いがつかず、それが原因でホビーを辞めることになり、シールビーチのハーバー・サーフボードに移ってトレッスルズ・スペシャルというモデルを作った。またカーボネル・サーフボードでもホビーのモデルに近いサーフボードをシェープしている。それから友人に勧められてサーフボードブランドの大手、ビングでシェープをすることになった。

その時期に、ブルーワーはホノルルのサーフラインと、カリフォルニアのハモサビーチにあるビングで革命的なガンをデザインする。それらはパイプライナー、ビッグアイランド・セミ、そしてビッグアイランド・ガンという名前で呼ばれた。そのときにブルーワーはデビッド・ヌヒワとシェイパーとライダーというリレーションシップを初めて組んだ。「ヌヒワは、新しいボードでも性能の限界を引き出せる才能を持っていたね。これまで一緒にやってきたなかで、最もクリエイティブなサーファーの一人だよ」とブルーワーはヌヒワを絶賛している。

「1967年の春にデビッド・ヌヒワのために9’10”のガンをシェープしたんだ。デビッドがそのノーズを折ってしまったから、それをリシェープした。長さは7’8”でノーズは17”と広かった。ランディ・ラリックがそれをグラスし、チャンズのレフトに持っていって試した。そしたら、とんでもないローラーコースターが決まったんだ。ノーズは重くてピンテールだったのにね。結果としてそれがビングのモデル「ロータス」のプロトタイプとなった。ミニガンというコンセプトがそこから始まった」

ブルーワーがビング時代に開発した名作。上がロータス、下がピンテイル Encyclopedia of Surfing

しかし、ビングの工場で起きたグラッサーの不手際が原因となり、製作中のサーフボードが曲がってしまうというトラブルが生じた、その責任を取らされたブルーワーはビングを解雇させられる。そしてマウイのラハイナへと移ってそこでラハイナ・サーフィンデザインをはじめた。

当時チームライダーであったジェフ・ハックマンはブルーワーの才能についてこう語った。「RB(ブルーワー)は優れたアンテナを持っていて、最先端のサーファーを見分けることができたんだ。若い連中とマリファナを吸ったりときにはLSDをやることもあって、みんなと仲良くなった。グレッグ・ノールもホビーもチームを持っていた。でもブルーワーのチームライダーはそんな連中よりもずっと先に進んでいたね。それだけでなく、ブルーワーは常に新しいデザインを追求していた」

ディック・ブルーワーのヒストリー その二に続く

(李リョウ)

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