俺流でソロトリップを極めた3人のサーファーたち(サーフトリップのすすめ)

サーフトリップのすすめ ソロトリップ・レジェンド編

サーフトリップというテーマで進めているこの企画。パート1では、ソロトリップという括りで、半年間をかけて世界を行脚してきた日本人サーファーを紹介させていただいた。おかげさまで予想以上の反響をいただいたので、もう少しこのソロトリップについて深掘りしてみたいと思う。今回は、俺流でソロトリップを極めた3人のサーファーを紹介したい。そのキーワードは『バージンウェーブと先住民族そしてバイク』だ。

▼目次
1.孤高のグローブトロッター:ピーター・トロイ
2メンタワイの先住民族と同化したサーファー:マッテイ・ハノン
3.ライダーズ・オン・ザストーム:エイドリアン・コジン

≫【サーフトリップのすすめ1】開かれた国のサーファーは、世界を目指す


孤高のグローブトロッター:ピーター・トロイ

トーケイで生まれたトロイはベルズビーチでサーフィンを始めたパイオニアでもある Peter Troy surf-claw.com photog; Unknown

サーフィンの歴史上、もっとも多くのバージンウェーブをサーフしたサーファーはピーター・トロイだ。彼は、わたしが知るかぎりでは、地球規模でサーフトリップを実行した「最初の人」で、もう2度と現れることのない「最後の人」となった。

最初の人というのはともかくとしても、なぜ彼が『最後』なのかと思われるかもしれない。それは、世界のサーフエリアがサーファーによって混雑するよりもまえに、彼はその波のほとんどを、たぶんたった一人でサーフしたからだ。しかも、そのほとんどがバージンウェーブ。それを考えると、彼を超えることは、時間を巻き戻す以外には不可能ということになる。つまり最初で最後のオンリーワンがピーター・トロイだ。

さて、ピーター・トロイの功績は、本国オーストラリアでは勲章を授与されるほどよく知られている。しかし日本ではほとんど知られていない。だが、ニアス島のラグンディーの波を初めてサーフしたサーファーと説明すれば「えっ!」と興味を抱く人も多いだろう。とにかく、彼が踏破したサーフトリップの距離や規模は圧倒的である。

ということで、ピーター・トロイの足跡をいまから辿ってみよう。トロイは1938年にビクトリア州のトーケイに生まれた。最初の旅は1963年の25才のときから4年間をかけて実行された。イギリスへ渡りイタリー、モロッコ、フランス(フランスではヨーロピアンサーフィン選手権に出場して優勝している)。その後、カナリー諸島、バージン諸島、アメリカ、ハワイへと訪れた。

Peter Troy surf-claw.com トロイの足跡が黒いラインで示されている

さらに南アメリカへも足を伸ばし、1964年のペルーインターナショナルに出場してファイナリストに残った。またブラジルではあるエピソードが起きた。コパカバーナを何も持たずにトロイが歩いていると、砂浜に新品のサーフボードを発見する。それはフランス大使の息子の持ち物だった。トロイはそのサーフボードを借りてサーフィンをし、衆目を集め新聞の記事となる。それがブラジルの大統領の目にも止まるほどのニュースとなった。

「当時はグランドピアノと一緒に旅をしているようなものだった」とトロイ。「質問してくる人の多かったこと、でもみんな親切にしてくれたよ」ブラジルからアルゼンチンへ行き、そこでは金持ちや美女にもてはやされて、政府専用飛行機DC3で移動することを許可された。

その後トロイはペルーに戻り、1965年の世界選手権にオーストラリアの代表として参加した。それから木材の貨物船に乗船してパナマ運河を渡り、大西洋のグリーンランド海域を横断、北極点からたった600マイルの距離のスピッツベルゲン諸島を訪れた。さらに、ヨーロッパを経てアフリカへ入り、アンゴラでは人類学の遠征に参加、カラハリ砂漠の200マイルを徒歩で横断し、1966年半ばに南アフリカへ上陸。そのときに、発見されたばかりのジェフリーズ・ベイの波をサーフした。それからオーストラリアに一度戻ったトロイは、サーフボードを持たずにモーリシャス諸島へと向い、タマリン・ベイで8フィートの完璧な波を発見する。

その3年後、1971年の映画「Sea of Joy」の製作にトロイは加わり、オーストラリアのサーフィン界を代表するウェイン・リンチや映画監督のポール・ウィッチィグを、彼が発見したモーリシャス諸島のパーフェクトウェーブへと導いている。

70年代前半になると、バリ島やジャワ島で多くの時間を費やし、1975年にはニアス島ラグンディー・ベイのチューブを初めてサーフしたサーファーの一人となった。

Peter Troy surf-claw.com

ちなみにサーフトリップ以外では60年代後半から70年代前半にかけて、トロイは両親と共にクイーンズランド州ヌーサ・ヘッズでモーテルを経営したり、1974年にはサーフィン映画だけを上映するシドニーの劇場の共同経営者となった。さらに90年代前半にはクイーンズランド州でサーフショップを経営した。さらに彼は、波がブレイクする小島を購入し、そこで一人で生活するというこれまた夢のような話も実現している。

1987年の『Surfing』誌のプロフィールによると、トロイは130カ国を訪れており、そのうちアフリカだけでも38カ国を数えたという。それから推測すると、この文章で挙げた彼のサーフトリップは、ほんの一部に過ぎないと考えていい。

1992年にトロイはオーストラリアの『Surfing Life』誌で「オーストラリアで最も影響力のある50人のサーファー」の一人に選ばれ、2002年にはオーストラリアのサーフィン殿堂入りを果たし、2007年にはサーフィンへの貢献が認められてオーストラリア勲章を授与された。しかし2008年、トロイはクイーンズランド州の自宅で、肺にできた血栓のために急死。享年69歳だった。

サーフトリップという分野で唯一無二の足跡を残したピーター・トロイ。しかし生涯を掛けてまで旅に駆り立てたものは何だったのだろうかと、わたしは彼のことを考えるたびにその疑問が浮かび上がる。そしていつも未解決のまま、わたしは心の隅へそれを押しのけて考えるのを止めてしまってきた。

サーフィンにかける情熱だけで、地球を何周もするだろうか。グーグルアースも無い時代に、どうやって波を発見したのか、旅費や生活費はどう工面したのか。情熱だけでは解決できない問題を彼どうやって克服したのだろうか。

米国『Surfer』誌はピーター・トロイの訃報に接した記事でこう述べている。「すばらしい人格とサーフィンの技術を持ち合わせた人間だったが、サーファーの夢というだけで、これだけの世界旅行を達成するだろうか。その仮面の下に別の目的があったとしても不思議には思えない。彼の人生のおそらく98%は語られることなく彼と共に墓に眠っている」。


メンタワイの先住民族と同化したサーファー:マッテイ・ハノン

The Surfer’s Journal 27.4(J,8-4) Matty Hannon photo by Heather Hiller
ハノンはこの記事を通じて、メンタワイの先住民族の生活がインドネシア政府の身勝手な政策に脅かされていることを警鐘している。サーファーズジャーナル日本版8-4

「サーフィンのソロトリップ」という枠を越えたサーファーが、マッティ・ハノンというオーストラリアのアーティスト&サーファーだ。彼が書いた手記と写真『島々のシケレイたち』がサーファーズジャーナル日本版8-4に掲載された。それを読み、わたしは二つのことでブッ飛んだ。

まず一つはメンタワイ諸島に先住民族がいるという事実だ。メンタワイ諸島に人が住んでいることは分かっていたが、それは近代になってから移り住んできた人々だと思っていた。しかしメンタワイには、アマゾンのインディオのようなオリジンな民族がいて、彼らは熱帯のジャングルのなかで精霊と共に暮らしているという。

二つ目のブッ飛びは、その先住民族にマッティ・ハノンが溶け込み、ついには同化してしまうというストーリーが記事に書かれているからだ。その部族にはシケレイ(森の番人)と呼ばれるシャーマンがいて、ハノンは彼らと同じタトゥをシケレイから彫ってもらい、その技術を彼らから習得し彼らに施すというところまでやってのける。もちろんハノンがメンタワイを訪れたのはサーフィンが目的だったが、彼は何年もかけてシケレイたちからの信頼を得て、彼らと生活を共にするようになった。サーフトリップというシンプルな枠からは外れた旅ではあるものの、これもやはりサーフィンの一人旅。恐るべし男である。


ライダーズ・オン・ザストーム:エイドリアン・コジン

SURFER Magazine Vol30,No3 photo by Adrian Kojin
パリ・ダカールで鍛え上げられたホンダXL600Rに荷物を満載して旅に出る。目的は『波』

1989年3月号の米サーファー誌に掲載された、ブラジリアンサーファー『エイドリアン・コジン』のバイク一人旅。最近は、あのデウスなんかがバイク&サーフみたいなコンセプトを提案したり、トーレン・マーチンもバイク旅で映像を配信しているから、バイクでサーフトリップといっても、そんなに珍しくは無いかもしれない。でもね80年代を知る者としては、21世紀になった今のような「何をやっても自由じゃん」的な空気感は無かった。80年代は誰も彼もがトライフィンに乗り、シングルフィンに乗るだけでもびっくりされた時代だった。

だから当時の感覚だと「えっバイクで!バカじゃない?」くらいの衝撃があった。ましてや、バイクで走ったルートを見ると今でも驚きだ。仮に車で旅をしたとしてもすごいエリアと距離なのだ(イラスト参照)。コジンが使用したバイクは、パリ・ダカールラリーで鍛え上げられたホンダXL600R。カリフォルニア州からメキシコの国境を越えてバハ半島に入り14カ国を通過して最終目的地のブラジルへと8ヶ月をかけて走破した。もちろんその道中で数々のパーフェクトウェーブを堪能したことは、ここで改めてわたしが語る必要はないだろう。

しかし80年代は政情が不安定で、中南米を通過するだけでもたいへんだったようだ。しかし、波のある田舎へ行けばそこで暮らす人々は優しくて問題はなかったとある。またパナマを出国してすぐにノリエガ将軍によるクーデターが起こって間一髪だったということもストーリーにある。(筆者はこの事件を覚えている。あのとき彼があそこにいたとは感慨深い)メキシカンパイプという名で有名なプエルト・エスコンディードでは愛用の7’2”を折ってしまったり、ペルーのチカマも訪れている。最後は無事にブラジルに到着して、めでたしめでたしというバイク一人旅。北海道–九州間を何往復くらいすればいいんだろうね。高性能な日本製のバイクを選んで正解だったと思う。筆者的には自動車でこのルートを攻めてみたいね。タフな四輪駆動車ならできるんじゃないかと思う、誰か行きませんか?

SURFER Magazine Vol30,No3
バハ半島をバイクで縦断するだけでも冒険なのに、それは全行程のほんの一部にすぎない

まとめ

サーファーの、「波さえあればどこまでも…」というパッションの正体はいったい何だろうと思うことがある。たかが波ではあるけれど、されど波。サーファーは、TVに海の風景が映るだけでも、どこかに波がないかと探してしまう…それって病気だ。生涯を賭して波のために地球を旅する。こうなると重病。波のために訪れた未開の地の先住民族と同化、バイクでアメリカから中南米や南米大陸を縦断してブラジルまで、あれもこれもかなり末期的だ。

とにもかくにもサーフトリップはアディクティブだなとつくづく思う。その病気を治す薬はない、でも治す必要ってあるだろうか、なぜならばサーファーは波に乗るだけで幸せになれるのだから…。

(李リョウ)

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