腰痛に悩むサーファーは少なくない。私もその1人。だが、今春、腰痛と腰椎椎間板ヘルニアは、また別物だと学んだ。
私が患ったヘルニアとはどういう病なのか(けがとも言える)、どんな治療があるのか、サーフィンとヘルニアは関連があるのか。前後編の2回に分けて、体験記をお届けします。
20代からぎっくり腰
サーフィンを始めたのは2014年11月、今から約10年前。海外勤務での3年間のブランクを除き、通算7年間は毎週末、千葉の海に通う生活を続けてきた。
腰痛との付き合いはさらに長い。新聞記者時代は“夜討ち朝駆け”で、朝5時に起きて深夜1時に帰宅するような不摂生な生活を送り、20代後半で初めてのぎっくり腰に見舞われる。
事件現場で取材中、自動販売機で飲み物を買い、釣銭を取ろうとしゃがんだ瞬間、グキッ! 数日間まともに歩けず、先輩が「ゴッドハンドがいる」と教えてくれた東京・阿佐ヶ谷の鍼灸院へ這うように通った。以後、大掃除で机を運ぼうとした瞬間、段ボールからワインボトルを1本取り出した瞬間など、ささいなことをきっかけに、何度もぎっくり腰を経験した。
引っ越しは14回
転勤が多かった上、居住環境にこだわりがある質でもあり、これまでの引っ越し回数は14回を数える。10回目ぐらいからは、引っ越しのたびぎっくり腰のような症状が出た。
2年前から脚(あし)に違和感
そんな腰痛人生を送りながら、初めて足に違和感を覚えたのは2022年10月だった。宮崎へサーフトリップに出かけ、4、5日連続でサーフィン。帰宅すると、右脚の太ももの裏に鈍痛が出た。
しばらくすると痛みは収まったので、「新しく買ったソファが合わないのかな」ぐらいにしか考えていなかった。だが、その後、連続して海に入ると痛くなり、少しサーフィンを控えると軽快するという状態を繰り返した。
当時の勤務先に近かった新宿駅西口の整形外科にも行った。レントゲンを撮られ、前屈などをした後、高齢の男性医師は「ヘルニアではないと思いますよ」と言った。
痛み止め飲んでサーフィン
時折の痛みと一抹の不安を抱えながら、昨秋、念願の海辺への移住を達成。海へ入る回数は必然的に増えた。ヨガも始めた。次第に痛みに襲われる頻度は増し、今年に入ると、四六時中、痛みを感じるようになった。
特に苦痛だったのはサーフィン中と後。痛み止めを飲んでいても、パドル時は痛かった。沖へ出ても、波待ちから痛みを伴う腹ばいになるのが嫌で、波を追うのが億劫になってしまった。整体院やマッサージへ行ったが、改善は見られなかった。
2月末に病院へ
2月に入ると、痛み止めなしには寝られなくなり、月末、千葉県外房地域のクリニックを受診。医師は「1年半前から痛いの!? その症状はたぶんヘルニア」と言って、翌日にMRI検査の予約をねじ込んでくれた。レントゲンで骨は映るが、椎間板は映らないため、診断にはMRIが必要なのだ。
MRI検査は、寝転んだ状態で体を固定され、トンネル状の装置の中で10分ほど耐える。何度も響く不気味な爆音で、撮像に必要な磁場を造り出しているらしく、知人2人から「気分が悪くなって途中リタイアした」と聞いていたが、私はウトウトしていた。
診断は「L5/S腰椎椎間板ヘルニア」
検査結果は、L5/S腰椎椎間板ヘルニアだった。
脊椎(背骨)は、椎骨という積み木のような骨が積み重なってできており、上から頸椎、胸椎、腰椎、仙骨、尾骨とあり、それぞれの椎骨の間にあるのが椎間板だ。L5/Sは、椎間板の位置を表し、第5腰椎と仙骨の間。
ヘルニアはラテン語で「脱出」
ヘルニアはラテン語で「脱出」を意味し、脱出した椎間板の位置によって、刺激する神経が特定されており、下半身のどこに痛みが出るか分布図もある。私は右太もも裏に強い痛みがあり、日によって右ふくらはぎまで痛みが降りてきた。典型的なL5/Sの症状だ。
日本整形外科学会と日本脊椎脊髄病学会が監修した「腰椎椎間板ヘルニア診療ガイドライン2021改定第3版」によると、腰椎椎間板ヘルニアに関する国内の一般住民を対象にした疫学研究はないという。同書が引用した外国の調査では、有病率は人口の1%前後。性別では男性にやや多く、平均年齢は40歳代。L4/5かL5/Sが大半だ。
リハビリか、注射か、手術か
私の診断を確定した医師は、「リハビリなどで治す保存的治療か、痛み止めのブロック注射を打つか、手術か。1カ月ぐらい検討してください」と告げ、大量の痛み止め、胃薬、神経鎮痛剤を処方した。
手術せずともヘルニアが自然に小さくなり、痛みが緩和する例を何人かの知人から聞いていた。私もそれを期待しており、めちゃくちゃ痛いと噂の神経ブロック注射や入院を伴う手術は絶対に避けたかった。保存的治療を選択し、リハビリを受けながら、ストレッチや筋力強化、体幹・四肢の可動域の改善などにより、痛みの緩和を目指すことにした。
3回ほどリハビリに通った後、担当の理学療法士に「このままリハビリを続けていても、いつサーフィン可能になるかわからない。サーフィンに詳しい先生がいるので診てもらってはどうか」と言われ、系列のクリニックで診察を行っている稲田邦匡医師を紹介された。
脊椎の専門医が日本初のサーフィン外来開設
稲田医師は脊椎の専門医。2009年からJPSA(日本プロサーフィン連盟)のオフィシャルサポートドクターを務めるなど、サーフィンに関する医科学研究の第一人者だ。2021年の東京五輪のサーフィン競技でも選手用医療チームのメンバーとして活動した。
「沢田さんのヘルニアはmassive(巨大)クラスですね」
MRI画像を見るなり、稲田医師はつぶやいた。一瞬ひるんだが、「自然にヘルニアがなくなるのを待ちたいのです」と正直に要望を伝えた。すると、稲田医師は「今のところ、その見込みはありません」と明言した。
「自然治癒は見込めない」
なぜなのか、説明してもらった。椎間板を輪切りにすると、ゴルフボールの断面のような構造で、中心に髄核と呼ばれるゼリー状の物質があり、周囲を線維輪が囲む。線維輪に亀裂が入り、髄核が外に脱出した状態がヘルニアだ。このはみ出た髄核が足につながる神経根を圧迫し、痛みを生じさせている。
私のヘルニアは、small、moderate、massiveの分類のうち、最大のmassive(巨大)クラス。しかし、飛び出した髄核は神経根を圧迫しているものの、脊椎と神経の間にある後縦靭帯を突き破ってはいなかった。これをコンテインドタイプと呼び、横になるなど、椎間板への圧力が下がっている状態では痛みが弱いので、なんとか日常生活は送れるのだ。
限界突破でマクロファージ登場
一方、後縦靭帯を突き破るノンコンテインドタイプになると、神経根に炎症が起き、激烈な痛みに襲われ、救急車で運ばれる人が続出する。ただ、後縦靭帯を破るヘルニアは、体の中で傷と認識される。稲田医師は「傷になると、白血球の一種で免疫系を担うマクロファージが登場し、ヘルニアを異物と捉えて食べるので、小さくなっていく。ヘルニアが後縦靭帯から出たら、1カ月か2カ月で治っていく」と話す。
あなたの周りにも、急性的にヘルニアの激烈な痛みに襲われ、歩くことすらままならなかったのに、手術なしに元気になった人がいるのではないだろうか。その人たちは、強い痛みの代償として、体の素晴らしい自然治癒力が働き、改善を見たのだろう。
私のヘルニアもいつか自然に小さくなると信じていたが、そうはいかないようだった。「沢田さんのヘルニアは、風船がはちきれんばかりのぎりぎりの状態。少しずつ大きくなるか、重い物を持つとか、ジャンプして着地するとかの衝撃で、いつか後縦靭帯を破るかもしれないが、今の時点で治る見込みはない。破けないと治らない」(稲田医師)
脊柱管の広さ2倍の特異体質
当時、痛みが生じてからすでに1年半が経過していた。なぜ、後縦靭帯を破らないまま、こんなにも長く大きく拡大を続けたのだろうか。稲田医師は「沢田さんは生まれつき、脊柱管という神経が通る道がとても広い。普通の人の倍ぐらいある。なので、ヘルニアが大きくなっても後縦靭帯を破ったり、神経の圧迫がそれほどひどくならなかった」と説明してくれた。
この時点で、自分の症状や置かれている状況を合理的に理解した。ヘルニアの自然治癒のためには、毎日の痛みに耐えながら、いつ来るともしれない激痛の後縦靭帯の穿破を待つしかない。排尿、排便のコントロールができなくなる膀胱直腸障害の心配もあった。そうなれば否応なしに手術。ヘルニアが神経を物理的に押しつぶしているMRI画像を見つめながら、しばし考えた。
座して破裂を待つか、手術か
絶対に体にメスを入れたくない人もいるだろうし、自己鍛錬や体質改善などで痛みの軽減を図る人もいるだろう。私個人としては、破裂と手術以外に、この巨大ヘルニアが小さくなる根拠を見つけることはできなかった。
いつか来るか、来るのかも分からないヘルニア破裂の日を、治るとも知れないリハビリをしながら、痛みに耐え、サーフィンも我慢し、待っていられるのか。答えは「ノー」だった。何のために移住したのか。あてどない日々を送りながら、座して待つより、リスクを冒してでも、自分から未来を掴みに行こうと決めた。
仕事柄、休みの融通が利きやすいことと、昔、親が付き合いで加入した医療保険を引き継いでいたことも手術を選択しやすい要件ではあった。
4月下旬、南州会勝浦クリニックで、稲田医師の執刀のもと、内視鏡によるヘルニア切除術を受ける覚悟をした。手術を決めてからは、「悪化してもいいや。どうせ切るし」という半ばヤケクソで、痛み止めを飲んで数回、海に入ったが、手術1週間前から腰の筋疲労を溜めないため、サーフィンは禁止。ちなみに、痛み止めを飲むと、顔や手足がパンパンにむくむので、できれば飲みたくなかった。薬とおさらばできる日が待ち遠しかった。
手術は生まれて初めてだった。
(後編)へ続く
(沢田千秋)