グレッグ・ノール、2014年のビラボンXXLアワードにて愛妻のローラと。右は自叙伝“DA BULL”の表紙

サーフィン番長の旅立ち。グレッグ・ノール訃報

グレッグ・ノールの訃報に接して思ったこと


陸の上ではどうしようもない奴だとしても、サーフィンが上手いとサーファーの世界では一目置かれる。ましてや、ハワイででかい波に乗ってきたなんていう武勇伝があれば、もうローカルヒーローだ。「サーフィンでわからす、もしくは、わからされる」というヒエラルキーは昔から同じ、ベンツやローレックスはサーフコミュニティーでは通用しない。

でかい波に乗るというその一点で考えればグレッグ・ノールは余裕の番長クラス。丸太のように重いサーフボードを100kg超の身体で操る「Da Bull」の勇姿は50年代のノースショアー開拓史にはなくてはならない存在だ。どうやら、ノールさんの性格は粗野で大雑把、でも包容力があって多くの人から愛されたようだ。

さて、ハワイででかい波に乗る。と言っても簡単な話ではない。そこに至るまでには布石を積むことが重要だ。まずはロコをリスペクトし、彼らから認められるようになってこそ、初めてラインナップで波を待てるようになる。マット・ワルショーのサーフィン百科事典によれば、グレッグ・ノールが最初にハワイへ渡ったは17才のときだという。当時ビッグウェーブサーフィンのメッカだったマカハでロコと暮らし、当地の高校で卒業を迎えた。それはカリフォルニア全土でまだサーファーが数百人しかいない時代だ。

グレッグ・ノール、サンセットビーチ surfline.com

ノールがマカハでビッグウェーブのスキルを磨き、ノースショアーへ遠征するようになるのは翌年。当時のノースはまだ未開の地だった。そこへ行くには、マカハをさらに西へ進みカエナポイントを大周りしてハレイワを目指した。ワイメア渓谷はまだ楽園のようだったに違いない。

彼が最初にノースでサーフィンを始めたポイントはサンセットビーチとラニアケア。ワイメアベイの波はサーファーを魅了していただろうが、1943年12月22日に起こったウッディ・ブラウンとディッキー・クロスの伝説的な事故によって、「死の波」として誰もパドルアウトしようとは思わなかった。

そのワイメアの波に、ノールが仲間と挑んだのが14年後の1957年11月7日で、初めてワイメアのビッグウェーブをサーフした男という名誉をノールは得た。(諸説あり、カリフォルニアのライフガード、ハリー・シャーチという男性が同日にノールらよりも先にサーフしたという説があるが、波のサイズ等の詳細は不明。)

ノールがビッグウェーブに乗り、それをメディアが映像に残し、彼は名実ともに伝説的なビッグウェーバーとなった。サーフィンを記録する重要性を認識していた彼は、さまざまな書物を出版したり、サーフィン映画を製作して自己宣伝に努め、本業のグレッグ・ノールサーフボードの販促とした。その努力が実り彼はハモサビーチに当時世界一の規模を誇るサーフボードファクトリーを建設する。シェーピングする台だけでも8つ、ラミネートは40本まで対応でき、フォームを発泡する部屋まで用意されていたという。

サーフィンもビッグならば、ビジネスもビッグにというスタイルが番長グレッグ・ノールだったようだ。1966年には週200本を製造していたというが、同年に起きたショートボード革命によって、彼のビジネスも大きなダメージを被ることになる。

やがて、彼が志向していたビッグウェーブサーフィンにも大きな転機が訪れる。1969年12月4日、マカハの35フィートに挑み、ドロップの途中でワイプアウト。当時としては最大の波だったという記録が残されている。生還はしたものの彼は大波に挑むという情熱をそこで失ってしまう。

「あのビッグマカハの日」と、彼は1989年に上梓した自叙伝 『Da Bull: Life Over the Edge』に記した。

「あの暗黒の巨大なバレルを、わたしはすぐそばで見上げたことを記憶している。親友が、あれは死の香りがする波だったと言った。当時わたしは否定したが、回想するたびに生と死の境界線があったのかもしれないと思うようになった」

サーフィンへの情熱を失ったノールは、サーフボード経営を清算するとアラスカへと都落ちし、モーターホームで隠遁のような生活を始める。ショートボードの到来が、ノールを海から遠ざけた要因の1つだったろうことは察するに余りある。その後、彼はカリフォルニアのクレッセントシティで漁師を生業として暮らすようになった。おそらくノール自身もこのまま人生を全うすると思っていただろう。

しかし80年代に起きたロングボードのリバイバルで、忘れ去られていたサーフィンの歴史に再び光が当てられた。往年のレジェンドたちは、メディアの美味しい標的となった。グレッグ・ノールも同じで、過去に彼が築きあげた功績がふたたび賞賛をあびるようになる。

まるで冬眠から目覚めた熊のように、ノールはグレッグ・ノールサーフボードをふたたび起こし、ミッキー・ドラのダキャット・モデルなども復刻させる。メディアにも数多く登場しとくにビッグウェーブがテーマとなる映画では欠かせない存在となった。また銘木を使ってオロやアライアなどもシェープし、コレクターズアイテムとして好評を得た。

サーファーズジャーナルの創立者、スティーブ・ペズマンがグレッグ・ノールとの思い出を綴っていたことを思いだす。突然、ノール夫妻が自宅に現れ、世間話をしたと思ったら煙を巻くように去っていった。訪問の目的はなんだったのだろうと考えていたペズマン氏がふと庭を見ると、新品のグレッグ・ノール・ダキャット・モデルがそこに置かれてあったのだという。やはりグレッグ・ノールはサーフィン番長。ちなみに彼は奇しくも、もう1人のサーフィン番長ケリー・スレーターと誕生日が同じ2月11日である。

サーフレジェンド、グレッグ・ノール、2021年6月没、享年84才。心より御冥福をお祈り申し上げます。

(李リョウ)

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