写真はインスタグラムより

フィル・ベッカー逝く。世界で一番たくさんのサーフボードを作った男

その数12万本という金字塔

2月25日、“Becker”のロゴで知られるシェーパーのフィル・ベッカーが膀胱癌のために自宅のあるハワイ島でこの世を去った。81才だった。彼は日本ではあまり知られていないが、カリフォルニアでは、100%のハンドシェープでサーフボードを作るビルダーとして有名だった。

彼のクラフトマンシップはマスターシェイパーのパット・ローソン曰く「シェープマシンが誕生する前から、フィルは彼自身がシェープマシンだった」と評させるほどの職人気質でもあった。

平均して1日10本のサーフボードをシェープ。休日以外は1日足りともシェープを休まず、世界チャンピオンのナット・ヤングが表敬訪問してもシェープの手を止めず、さらに電話インタビューのときにはファクトリーのスタッフにベッカー本人のふりをさせて対応させ、結婚も仕事の邪魔だと晩年まで独身を貫き(77才でリンダ・ミジェットと結婚)、ハモサビーチウォークオブフェイムの授賞式のときや、母親が亡くなった日にも彼はシェープを休まなかった。

少年時代だった頃のフィル・ベッカー(右から2人目、麦わら帽子を被っている)https://easyreadernews.com

トム・ブレークとの巡り会い

ベッカーは1940年生まれ、15才でパロスバーデスのバルフコーブでサーフィンを始めた。最初のサーフボードはトム・ブレークのレッドウッド製クークボックスで長さは14フィートだった。ベッカーはイートン兄弟と共にそれをトム本人から5ドルで購入した。というのも、トム・ブレークは当時パロスバーデススイムクラブのコーチでベッカーらに水泳を教えていた。(のちにその1人マイク・イートンもシェーパーとなる)

ベッカーがシェーパーの道に進んだのは、他の多くのシェーパーと同じくガレージシェープからだった。その後デール・ベルジーとハップ・ジェイコブスからシェープを学び。数年後にハモサビーチにあるリックサーフボードで仕事を始めた。1958年にはそこでヘッドシェーパーとなり、1979年までそのポジションで働きながらボードビルディングに関するさまざまなことを経験し技術を磨いた。

やがてサーフボードクラフトマンとして評判を得ると、生涯のビジネスパートナーとなるスティーブ・マンギアグリ、デイブ・ホランダーたちとリックサーフボードの工場を買収し、ハモサビーチのピアーアベニューに最初のベッカーサーフボードの店を開店した。マンギアグリはグラッサー、ホランダーはピンストライパーとして働いた。事業はすぐに軌道に乗ったために、ベッカーはボード作りだけに専念することができ、シェーピング一筋の人生がスタートした。

(グラッサー:ファイバーグラスのラミネーター、ピンストライパー:サーフボードにピンストライプを描く職人)

ベッカーサーフボードを立ち上げたのにも関わらず、彼はシェープ以外には全く関わらなかった。さらに倹約家としても知られ、支払いは全て現金というスタイルを貫いた。またベッカーはサーフコンテストやショートボードにも興味を示さず。ユーザーフレンドリーなサーフボードを作ることに専心した。それを裏付けるように彼の作ってきたサーフボードには、テイクオフの楽なロングボードやミッドレングスが多い。ショートボード革命以後の70年代もロングボードを作り続けてきたカリフォルニアのシェーパーは彼とマイク・イートンの2人だけであった。それは流行と関わらずサーファーに支持されていたという証でもある。

サーフィン百科事典のジャーナリスト、マット・ワルショーは「ベッカーはサーフチームも作らなかったし、腕時計すらしない、写真を撮られるのが嫌い、インタビューはごくまれに受けた」と評している。

インスタグラムより

インタビュー嫌い写真嫌いアンチコンテストだからサーフチームも結成せず。サーフィンを楽しみたい人のためにサーフボードをシェープし続けて、一番の喜びはユーザー顔だとベッカーはある貴重なインタビュー明言している。

シェープしたサーフボードの数は米サーフィン誌の推定で12万本、しかもそのほとんどがハンドシェープによるものだ。これは文句なしの世界一で、おそらくこれから先も破られることのない数字だ。ちなみに2位はホビーサーフボードの故テリー・マーチンで、8万本。3位はアル・メリックで4万5千本。(どちらも推定)

1993年の米サーファー誌より。インタビュアーはサム・ジョージ

私が興味ぶかいと思うのは、誰もがベッカーサーフボードを知っているのに、そのシェーパーを知る人はごくわずか。ほとんどの人はあなたについて何も知りませんよね。業界の表舞台に立とうとしないのは意識的なものなんでしょうか?
「自然の成り行きだよ、そうなるように選んだわけではないよ。少なくとも意識はしていない。私はただサーフボードの注文を受けて作っていただけ、他のことには関わらなかっただけさ」

ベッカーのサーフボードに乗ったサーファーの波にドロップインしたことはありますか?
「そうだね、もちろんあるよ、でも彼らは私が誰だか知らない。私のボードに乗っているほとんどの人は私を知らないんだ」

ひたすらシェープを続けてきたベッカーだったが、2006年にベッカーはシェーピングの仕事量を減らしてハワイへと移り、4年後の2010年にはマリブ、エンシニータスそしてミッションビエホにあった店舗ベッカーサーフアンドスポーツをビラボンに売却した。その後、ハワイで出会った女性リンダ・ミジェットと77才で結婚する。そして7年後、84才で天国へと旅立った。

ベッカーサーフボードのシェープは愛弟子であるホセ・バラホーナへと引き継がれている。バラホーナは1981年に15才でエクアドルより移民としてアメリカへ渡り、ある縁によりファクトリーで働くことになった。英語さえ話せなかったその少年にベッカーはシェーピング技術を教え、また愛用の1965年製ロックウェル・プレーナーまでも譲った。

ハモサビーチにあるフィルの功績を称えた銅板 

フィル・ベッカーは自身のやりたいことを貫き通した人生を送った。大学にも行かず、スーツを着てオフィスで仕事もせず建設現場で働くこともなかった。彼は彼が好きなサーフボードシェーパーとしての人生を最後まで全うした。

(李リョウ)

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