22歳のカイウラニ王女(撮影者不明 ハワイ州アーカイブより)彩色: トニー・バーンヒル Princess Kailuani in 1897 courtesy of the Hawaii State Archives Colorized by Tony Barnhill

サーフィンを愛した悲劇の王女:プリンセス・カイウラニ

ハワイ王国を守ろうと奮闘し、近代サーフィンの礎となった


ワイキキのカラカウア大通りには「プリンセス・カイウラニ」という名の有名なホテルがありますが、その名の由来となったカイウラニ王女を知る人は、意外と少ないかもしれません。彼女はハワイ王国の王女というだけでなく、美しく聡明で、そしてサーフィンを心から愛したサーファーガールでした。

彼女のサーフィンで特筆すべきは、ある「抵抗運動」が、後に近代サーフィンの父と呼ばれるデューク・カハナモクがオリンピックで金メダルを獲得する遠因にもなったかもしれないということです。しかし、時代という波に翻弄され、カイウラニは悲劇の王女として短い生涯を終えています。このコラムでは、不遇の時代にサーフィンの伝統を守った、プリンセス・カイウラニの物語をご紹介します。

「天の最高点」と命名された王女の生い立ち

プリンセス・カイウラニは、1875年10月16日にハワイで生を受けました。彼女の母はライク・ライク王女で、父はスコットランドの実業家、アーチボルド・スコット・クレッグホーンです。カイウラニの血筋は、ハワイ王国を初めて統一したカメハメハ大王の末裔でもあります。母ライク・ライクには、第7代国王カラカウア王と、最後の君主である第8代リリウオカラニ女王という兄姉がいました。

カイウラニの正式な名は「ヴィクトリア・カヴェキウ・カイウラニ・ルナリロ・カラニヌイアヒラパラパ・クレッグホーン」といい、その中のハワイ語「カイウラニ」は「天の最高点」あるいは「王家の神聖な者」を意味します。王位継承順位が第二位で年齢も若かったカイウラニは、将来ハワイ王国の女王となることを周囲から期待されていました。

ハワイの伝統を守るため波に乗ることで立ち向かった

当時のハワイは独立した王国であり、カイウラニの家系がハワイ諸島を統治していました。しかし、1820年にアメリカからやってきた福音派のプロテスタント宣教師たちが、キリスト教を布教しハワイの社会で影響力を強めていきました。彼らはハワイのさまざまな文化や伝統を「異教的」として禁じ、特にサーフィンやフラはその大きな対象となりました。ハワイアンたちが熱心にサーフィンに興じることが、布教活動の妨げになったためとも言われます。

ハワイの人々からサーフィンを取り上げようとした宣教師たちに対して、カイウラニはそれを無視して毎日のようにサーフィンを続けました。彼女はサーフィンを根絶やしにしようとするその大きな勢力に対して、ハワイの伝統を守ろうと波に乗ることで立ち向かったのです。

彼女の並外れたサーフィンの腕前は、特にビッグウェイブで際立っていたと当時の人々の間で評判になったようです。20世紀初頭のサーファーで、ワイキキのフイ・ナル・カヌークラブの創設者であるクヌート・コットレルによると「カイウラニは、ウィリウィリの木でできた堅く長いオロボードでサーフィンをした。彼女は最後のネイティブ・ハワイアン・サーファーでもあった」と証言しています。彼女は、宣教師たちによるサーフィンの禁止令に屈せず波に乗り続けることでハワイの文化と精神を守ろうとした、まさに「波の上の抵抗者」でした。

(訳注、フイ・ナル・カヌークラブ は1908年にワイキキに創立された非営利の団体。創立者はクヌート・コットレル、デューク・カハナモク、ケネス・ウインター)

プリンセス・カイウラニが愛したワイキキ moaru.net

イギリスでの教育と海の安らぎ

プリンセス・カイウラニによるサーフィの功績はハワイに留まりません。彼女は、ヨーロッパ少なくともイギリスで初めてサーフィンをしたパイオニアかもしれないのです。

将来ハワイ王国の君主となる準備として、カラカウア王の決断により、カイウラニはイギリスでの教育を受けることになりました。1889年、彼女はイングランド中部のノーサンプトンシャー州にあるグレート・ハロウデン・ホールという寄宿学校へ送られます。そこでラテン語、文学、数学、歴史で優れた成績を収め、フランス語とドイツ語、テニスやクリケットも習得しました。

厳しい学業の合間を縫って、彼女はブライトンの海で頻繁にサーフィンを楽しんだという記録が残っています。彼女を監督したルーク夫人は「王女は水上にいることを大変喜び、精気を与える潮風が彼女に新たな活力を与えました」と回想しており、サーフィンが彼女にとって心の安らぎであり、活力源であったことがうかがえます。

(訳注、カイウラニがイギリスのブライトンでサーフィンに興じたというルーク夫人の証言は、ウーマン・オン・ウィブス、ジム・ケンプトン著に記されている。しかしサーフボードを用いて波に乗ったという公式な記述は残っていない)

クーデターと直訴そして早すぎた死

王位に就くための準備を着々と進めていたカイウラニでしたが、1893年1月、ハワイで彼女の運命を揺るがす悲劇が起こります。在ハワイのアメリカ人実業家やアメリカ政府が関与した「ハワイ王国転覆事件」です。

「女王廃位、君主制廃止」の電報を受け取ったカイウラニは、イギリスの報道機関にこの事態を発表し、アメリカ大統領への直訴を決意します。彼女はアメリカへ渡り、当時のグローバー・クリーブランド大統領と面会。その訴えはクリーブランド大統領の心を動かし、彼はハワイの併合が不当であることを認めましたが、議会の併合推進派の強い反対により、ハワイ王政の復位は実現しませんでした。その後、ハワイ共和国が樹立され、最終的にはアメリカの準州となり、カイウラニが女王となる道は閉ざされてしまいます。

失意のなかでハワイに戻ったカイウラニを、さらなる不幸が襲います。精神的な支えだった異母姉のアニー・クレッグホーンと、後見人として経済的にもカイウラニを支えていたイギリス人実業家セオフィラス・ハリス・デイヴィスが相次いで亡くなってしまったのです。立て続けの喪失に精神的に疲弊した彼女は、公の場に姿を現すことが少なくなりました。

そして1898年末、ハワイの山中で乗馬中に嵐に巻き込まれ、熱を出して致命的な肺炎を患ってしまいます。1899年3月6日、プリンセス・カイウラニはわずか23歳という若さでこの世を去りました。

ハワイ王国の王位継承者として、遠くイギリスでサーフィンを楽しみ、ハワイではハワイの伝統を守ろうと波に乗ることで抵抗を続けたプリンセス・カイウラニ。彼女のこの抵抗運動が、サーフィンの伝統が完全に潰えるのを食い止め、20世紀初頭にオリンピック水泳でゴールドメダリストとなったデューク・カハナモクの功績へと繋がったと唱える歴史家もいます。彼女の存在はハワイの誇りと文化を守る象徴として、今も人々の心に深く刻まれています。

(李リョウ)

参考資料
https://www.ksbe.edu/article/womens-history-month-kaiulani-beloved-princess
https://legendary-surfers.blogspot.com/2025/05/princes-kaiulani-1875-1899
https://electricscotland.com/history/women/wh36.htm
https://www.instagram.com/direct/t/112368520156569

Woman on waves written by Jim Kempton

blank

「国内外サーフィン界の最新トレンド・ニュースを読み解く」をコンセプトに、最新サーフィンニュースをお届けします。

この記事に 関連するタグ

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等を禁じます。