「WEST JAPAN SURF MOVEMENT」開設記念インタビュー
西日本のサーファーたちは、まだ誰も知らない波を求めて日本を出た。
メキシコ、ニアス、バリ、そしてハワイ・ノースショア。ボードも持たず、計画も立てず、行った先で板を借り、地元の人間と飲み、そのまま居着く。目的地に着くまでが、すでに旅だった。
写真家・芝田満之は、その旅の同行者だった。1977年に『サーフマガジン』専属カメラマンとしてキャリアを始め、彼らのかたわらでシャッターを切り続けてきた。
「WEST JAPAN SURF MOVEMENT」始動を記念し、『ザ・サーファーズ・ジャーナル・ジャパン』編集長・井澤聡朗が聞き手となって、当時の関西サーファーたちの姿を振り返る。
井澤 そもそも芝田が関西のサーファーたちと関わるようになったきっかけって、なんだったの。
芝田 えっとね。(大野)薫ちゃんに紹介されたのが「エヘ(村瀬勝弘さん)」だったの。それが始まりかな。ふたりとも亡くなっちゃったけどね。薫ちゃんに言われて、原宿で待ち合わせて、話してみたらすごく面白いやつでね。人懐っこいというか、それで伊勢に遊びにおいでよって誘われて、行ったらもう居着いちゃった。伊勢は本当に楽しいところだったんだよね。人も少なくて、みんな明るくて、波はそんなになくても毎日パーティーみたいな空気があって。
井澤 当時の関西はOSA(大阪サーフィン連盟)なんて独自の団体もあって、やはりその頃は、伊勢が西の中心ですか?
芝田 みんな伊勢に集まってたね。たしかにOSAなんて団体を作って大会なんかやってた。第1回目の優勝者はたしか千葉公平。当時から上手かったんだね公平さん。でも当時の伊勢は、大会以上にほとんど騒いでワイワイというような時代だった。中心人物はやはりヘンリー(祝)さん。おしゃれで、茶髪で、まさに「関西のドン」と呼ぶにふさわしい存在感だった。サーフィンも上手かった。ヘンリーさん自身は進んで海外への遠征こそしなかったものの、独特なスタイルが、けっこう関西サーファーたちの憧れの的って感じだったかな。


井澤 そして「エヘ」さんたちとのメキシコ行きが決まるわけでしょ?あれは雑誌の取材で?
芝田 全然。取材でもなんでもない。伊勢にいるときに、面白そうだから行こうって。最初はカリフォルニアという話だったんだけどね。じゃあ、どうせならメキシコまで行っちゃおうって話になって。エヘの知り合いが向こうに二人いるからって、サーフボードも持たずに。エヘも英語はまるでダメでも、メキシコの言葉だろうと、ガーって飲み出すと、誰とでもすぐ仲良くなっちゃう。オーシャンサイドかエンシニータスのバーで、シェイパーのサム・ホークと知り合って、その紹介で知り合ったホセという地元の男が板を貸してくれた。庭に何本もガンが転がってて、好きなの持ってけって。それでケースにも入れずに、ホセとそのまま飛行機とローカルバス乗り継いで、、、


井澤 以前、ウチの雑誌でも紹介したことがあるエヘさんとの旅だけど、それからはちょくちょく?
芝田 メキシコへは1978年から4年ぐらい、ワーゲンバンでポイントでキャンプしながらバハの先端からアカプルコ経由プエルトエスコンディド。他にミッタカ(池田光孝)とか表木敬治、伊勢のワハ(田畑克彦)とかもメンバーになってね。関西の人は旅のノリが本当にいいんだよ。別にサーフィンの為に行くんじゃないんだよね。サーフィンは楽しけりゃそれでいい、くらいの気持ちで、余計なところにも寄り道する。目的のためだけに時間を使う、というタイプじゃない。波乗り100%サーフィンのための旅ではなく、俺もそういったタイプじゃないし、サーフィンは楽しけりゃいいじゃん、みたいな。

井澤 人との出会いそのものを楽しむ。それが、彼ら関西勢に共通する旅のスタイルだったってことかな。
芝田 あと、山本浩二、浩ちゃんなんかも、まさにそんな感じだよ。
井澤 山本さんとは、どこで知り合ったの?
芝田 当時、僕は茅ヶ崎に住んでいたんだけど、茨城でショップやってたバックドアの石毛さんがいて、彼が「芝田、面白いのがいるよ」って山本浩二を紹介してくれたんだ。そうしたら会ったその日に「来週からニアス行くけど、行く?」って聞かれてね。まぁ拉致された感じ!
井澤 マジで?またずいぶんせっかちな展開だね?それで次の週には出発、と。
芝田 一週間で用意して行ったよ。当時は16mmのムービーもやりたくて、機材ごと全部持って。彼らはバナナーズってチームを組んでて、その旅で木梨邦則や植田昌宏、はたぼう(畑中正明)、南隆史たちとも一緒になった。

井澤 それは雑誌『サーフィンクラシック(SC)』の石井(秀明)さんのニアスツアーよりも……
芝田 1年前かな。そのニアス行きの船を待つ間、みんなでスマトラのトバ湖ってところに停泊するんだけど、「明日の朝に出港ね」と言われたきり誰も迎えに来ず、結局三日ほど足止めを喰らっちゃうの。でも焦らない。それぞれ楽しみ方を見つけて。とにかく適当。出たとこ勝負。関東勢との旅って、けっこうキッチリと計画練って、プラン通りに動く感じなんだけど、彼らとの旅は、目的地に着くまで旅そのもの、という感じで、いろんな事がおこって、すごく楽しかった。浩ちゃんは、四国の海陽町にペンションを構えて、布島や竹ヶ島の開拓に力を入れていた。サーフィンも好きっだったけど、とにかく大きい波には躊躇なく向かっていく人でした。そのバイタリティは本当にすごかった。


井澤 関西のサーファーというと、ハングリー精神というか、どこへでも旅する開拓者精神というイメージが強いけど、デカいのもガンガン行ってたの?
芝田 そうそう。ニアスの帰りに、浩ちゃんたちとバリに寄ってね。二週間くらい遊ぶんだけど、ウルワツでね。12フィート近いクローズアウトのセットをみんなで見てたの。ピークにはテリー・フィッツジェラルドくらいしか入ってない。そしたら南隆史が「見ているだけじゃなんなんで、僕も行っていいですかね」なんて、本当に突っ込んで行っちゃった。テリー・フィッツと肩を並べて。彼らは本当に入っていっちゃう。そういうやつらだったんだ。
井澤 ハワイではどうだったんですか?ノースショアなんかでは。本当に行っちゃう?
芝田 本当に行っちゃうんですよ、彼らは。本当にデカいのいってたのは僕の知るなかでは、ニック”人間”野崎や京都出身の山根ショージのふたり。朝からニンニクすり潰して一気に飲み込んで、「芝やん、行くでー」って。ワイメアでジェームス・ジョーンズより奥で待ってるんだからこの二人。で、本当に乗っていく。あと、シンペイのお父さんの元気さんのメンバーとかさぁ。当時、湘南の連中でそこまでデカい波に向かっていく人ってほとんどいなかった。サンセットの博道とパイプのモスケさん(三橋敬一)くらいだったかなぁ〜


井澤 関西から関東へ最初に拠点を移した一人が、やはり千葉公平さんですか。
芝田 そう、公平さんは早かった。茅ヶ崎のジョージさんとこに随分ながくいたしね。その頃からの付き合い。おしゃれでね。フランス、スペインまで一緒に取材旅行したこともある。広告出稿してくれたスポンサーが予算をつけてくれて、パリから車で南下していく取材旅。高速道路で事故で入院というハプニングもあったけど、それでもきちんと取材はやり遂げて。パリでは、自分の持ち金が半分吹き飛ぶのを承知で、デザイナーブランドのコートと靴を買ってしまうくらい、ファッションへのこだわりも人一倍。俺、なんで公平さん好きなのかっていうと、海でも陸でも自分のスタイルを持っているしどんな時も冷静で凄く頼りになるんだ。
井澤 公平さんは、独特のカッコ良さ、雰囲気がある。関西の他の人たちもそうだった?
芝田 関西の人って、湘南のかっこよさに憧れてるなんて言いながらも、自分たちなりのスタイルを崩さなかった。こだわりというか。旅先での身のこなしや、外に出て人と交わっていく姿勢がとにかく最高だった。湘南の人たちは内向きというかシャイでさ、あの外交的な気質は、湘南とはまた違った魅力だよね。
編集部 80年代、『SC』誌に掲載された「大阪ベイ・ブルース」という特集がありますよね。あれで初めて関西にスポット当てた、という感覚があったんですが、どうですか。
井澤 それまではワールド時代から、石井さんも、『サーフマガジン』や『サーフィンライフ』も東を向いて編集してた印象が強いよね。
芝田 あれは確かカメラマンの金ちゃん(木本直哉)が中心になって作った特集だよね。彼も大阪出身。
井澤 とにかくハングリーに世界中を旅する大阪のサーファーたちを取り上げた企画で、あれではじめて関西のサーファーたちが注目された。
芝田 金ちゃんはスポンサーもつけず、一人でリュックの代わりに背負子に荷物を積んで、ゴールドコーストでテント生活をしながら写真を撮っていた。
井澤 ハングリーだねぇ。その歩く姿が二宮金次郎に似ているから「金ちゃん」と呼ばれるようになったらしいですよ。
芝田 カメラマンだと、関西勢の先駆けはやっぱりミック安永。ミックさんとはオーストラリアで知り合ったの。もうその頃ハワイに住んでたんだよね。だから、デーン・ケアロハとかマイケル・ホーとか、ハワイ勢を連れてゴールドコーストに来てたんですよ。そこに確か公平さんもいたのかな。で、日本人だからって仲良くなった。
編集部 世界中、どこに行っても出会う関西サーファーという感じですね。さっきの特集の中で、編集長の石井秀明さんが、「華阪(かはん)」という言葉を使われていたのも印象的でした。
井澤 華僑になぞらえた表現ですよね。
芝田 世界中どこへ行っても大阪のサーファーに出くわす、という現象は、とにかく面白かった。70年代にライターの江本陸とスリランカに行ったときも、ちゃんと先に居るんだよね。関西のサーファーが。
井澤 写真家として、関西のサーファーたちを撮っていて印象的だったことはありますか。
芝田 とにかくカメラを向けると、みんな自然にポーズを取ってくれるんですよ。湘南の人達は逆にシャイでね、カメラを向けても演技してくれない人が多かった。水中でサーフィンを撮るにしたって、チャンネルで待っているとあわや轢かれちゃいそうになることがある。ところが関西の人たちは、そんなこと絶対無い。むしろ「撮ってくれ」というくらいのノリでカメラの前で演じてくれる。カメラマンにとっては本当にありがたい存在だったね。あの人懐っこさも含めて、旅先でも自分から前に出ていく気質があったんだと思うなぁ。


井澤 いっしょに旅するのも楽しい。撮影していてもやりやすい。関西人、やはりコミュニケーションに長けてるのかなぁ〜
芝田 結局さ、彼らって波だけを追いかけてたわけじゃないんだよね。人に会うのが好きで、知らない土地に行くのが好きで、たまたまそこにサーフィンがあった、ってくらいの感覚だったと思う。だからみんな物怖じしないし、カメラの前でも自然に自分を出せた。俺はそれを、ただ撮らせてもらってただけなんだけどさ。
井澤 その”たまたまサーフィンがあった”くらいの軽さが、結局、自由だったなってことなのかもね。今だからこそ、彼らの生き方そのものが、いちばんのお手本になる気がします。
芝田 だといいけどね。俺はもう当時を知ってる数少ない一人になっちゃったから、覚えてることは全部話すよ。まだまだ出てくるから、また今度ゆっくり飲みながら聞いてよ。
井澤 ぜひまた。今日はありがとうございました。
掲載写真:Mitsuyuki Shibata
芝田満之(しばたみつゆき)

1955年生まれ。葉山在住。写真家。
独学で映像と写真を学び、1977年にサーフィン雑誌『サーフマガジン』の専属カメラマンとしてプロカメラマンとしてのキャリアをスタート。
ロマンチックで抒情的な写真は、サーフィン界のみならずさまざまな分野から高く評価され、広告を中心に雑誌のエディトリアルや映画・CMなどの映像も多数手掛けている。
代表作に『Daze』『SUMMER BOHEMIANS』『saltwater Sky』や、池澤夏樹氏との共作『カイマナヒラの家』など。
井澤聡朗 (いざわとしろう)

1955年生まれ。鎌倉在住。
雑誌『ザ・サーファーズ・ジャーナル・ジャパン』編集長
1970年代後期から、映像プロデューサー&ディレクターとして、さまざまなジャンルで数多くの映像作品を制作。
90年代〜00年代は、日本初のサーフィンビデオ『ツナミ・コーリング』シリーズのプロデュースをはじめ、
『ウィングナットのアート・オブ・ロングボーディング』シリーズなど、サーフィン関係の作品を数多く手がけた。
現在は、編集長として、雑誌『ザ・サーファーズ・ジャーナル・ジャパン』発行に携わる。
